沖縄の鮮魚をアジアへ輸出する地域商社「萌す」を2015年に設立し、現在は沖縄の海人(うみんちゅ。漁師の意)とアジアの飲食店オーナーを結びつけるべく日々奔走する後藤大輔さん。元は水泳のコーチとして約8年の指導歴があり、五輪を目指す強化選手の育成にも寄与したという経歴の持ち主だ。しかしその後、とあるきっかけでコーチ業に区切りをつけ、全く縁のなかった沖縄へ。畑違いの観光プロデューサー・コーディネーターから、さらに畑違いの鮮魚輸出ビジネスへと軸足を切り替え、アジアを出口とする沖縄発の地域ビジネスの旗手として、めきめきと頭角を現しつつある。そんな後藤さんがこれまで歩んできた “規格外”な道のりを、ウェブ公開可能な範囲内で(!)ご紹介しよう。

後藤 大輔

1977年、静岡県沼津市生まれ。高校卒業後、地元のスイミングスクールで選手指導に専心。2004年に上京し、東京・神奈川の複数拠点でも指導実績を積む。
2005年、沖縄に渡り、友人とともに民間の沖縄観光案内所「アーストリップ」を開設。観光プロデューサーとして10年にわたり活動。産・官・学とあらゆるチャネルを通して観光の現場を経験し、その中で地域に根ざす様々な課題に直面した。
2015年、地域商社「萌す(きざす)」を設立し、代表取締役に就任。沖縄県内の漁港でせり落とした鮮魚を、シンガポールや台湾、タイ、香港などのローカル飲食店へダイレクトに卸す貿易事業を主軸に、「地域商社」として地域が抱える課題の解決、とくに地域の雇用と収入を増やせる地域事業の創出やしくみづくりにも挑む。

記事のポイント

  • 水泳コーチになる夢を叶えたのち、沖縄へ移住。畑違いの観光業に転職し地域経済の課題に直面する
  • 地域の価値を上げるため、鮮魚の輸出ビジネスと、島民の収入アップに貢献する副業紹介をスタート
  • 海外の取引先は「人脈」で拡大。日本大使館から引き合いを受けるまでに
  • 人懐こい笑顔とよく通る声、やや早口のマシンガントークに、豪快な笑い。後藤大輔さんは初対面の相手でも距離を一気に詰め、惹き込んでしまう極陽性のオーラの持ち主だ。鮮魚の輸出を主軸として急速に成長を遂げつつある「萌す」のビジネスについては、別記事を参照いただくとして、こちらの記事では主に後藤さんの人物像についてつまびらかにしていく。冒頭のプロフィールでも触れた通り、後藤さんは水泳の指導者→観光プロデューサー→鮮魚輸出を中心とした貿易業、という実にハネ幅の大きいキャリアパスをたどってきた人だ。一見すると全く一貫性がないようだが、その基盤にはどんな根っこがあるのだろうか。

    “意味わかんないことは無理。
    自分のやりたいことをやる”を貫く

    「スイミングスクールで働く、ということは実は小学生の時から決めていました。そのスクールには3歳から通い始め、5歳まで全く泳げなかったのがだんだん泳げるようになり、全国大会にも出場しました。『できないことができるようになる』のがすごく楽しくて、それで中学の時に『ここに就職します』と宣言。そしたら『高校行った方がいいよ』って返されて、今思えば会社も採用したくなかったんだろうな(笑)。勉強が苦手だったので高校に行くつもりはなかったんですが、プールで働くために仕方なく(笑)。ぎりぎりで県立高校に進学しました。」

    高校に入ると毎学期のように、親が学校に呼び出されていたという後藤さん。

    「プールの先生になるのに、体育とか保健とか国語はいいけど、因数分解とか化学とか勉強する意味がわからなくて。その時間には他のクラスに混じって体育や保健を受けていました。授業に出ていない教科で追試を受けることになれば、赤点つけられて落第するのを回避するために、試験の解答の代わりに、『僕の夢』という題名で作文を書いて出したりして。先生も困っていましたが、僕も困っていました(笑)。それで、校長先生はじめ先生たちみんなの前でプレゼンしたんです。『プールの先生になる』という夢に向かってやりたいことをやるのを応援してほしいと。そうすることで自分がもしダメになっても、一切の責任は僕にありますから。その代わり夢を叶えたら必ず先生方に、お礼しに行きますから、と。」

    突き抜けた(!)高校生活を貫き、卒業証書を手に意気揚々とスクールへ向かった後藤さんは、今度は「専門学校があるぞ」と突き返される。

    「ちょっと待て、と(笑)。高校までと言ってたでしょう、と抵抗しましたが、いや専門学校に行かないとダメだ、と言われて2年間、体育系の専門学校で勉強して。卒業後にようやく、入社が認められました。」

    後藤さんは真新しい名刺を手に、休みを取って約束通り高校の先生たちに挨拶しに行った。

    「転勤先の高校全部を回って、名刺を渡して。『先生、僕、勉強できませんでしたけどコーチになれました。ここからは夢を追いたいと思います、ありがとうございました』と伝えました。ある先生からは『何が正しくて何が間違ってるかわからないけど、夢が叶ってよかったね』という言葉をもらい、これが真理だな、と思いましたね。」

    念願のコーチとなってからは約8年間、子どもから高齢者まで幅広く指導し、五輪を目指す強化チームも担当した。しかし、この頃にスクールの経営資本が変わったことで、それまでの教育志向・競技志向が業績志向へと変容。これが後藤さんを取り巻く環境を激変させる。

    首都圏へと異動になり、東京や横浜などでも指導実績を重ねたが、「その後いろいろなことがあり、最終的には会社を去ることになりました」と後藤さん。

    「一番の理由は『大事なのはお金なのか、教育なのか』という点で、会社の言い分が理解できなかったことかな。育成実績も上げていたし、売上も予算も達成していたので『辞めます』と言ったら会社は当初受け入れてくれなかった。好条件での慰留もあったんですが、僕は『やってられん』と飛び出しました。その後沖縄に来て、ガクンと収入が落ちた時は、ちょっと後悔しましたけどね(笑)」

    身寄りのない沖縄で、異分野への挑戦。
    「逃げ場ゼロ、あとは攻めるだけ」

    あれほどに熱望し、打ち込んだ水泳コーチのキャリアに自ら区切りをつけ、全くの異分野に挑戦しようと後藤さんが選んだ新天地は、沖縄だった。

    「日本は子どもが減っていて、人口動態がヤバイな、と。でも海外に目を転じれば伸びているところも多くて、特にアジアは成長著しい。ならば沖縄に住んだら、アジアを相手に仕事できるかな?そんな風に考えて、沖縄に行こうと決めました。ちょうどその頃、友人が沖縄で民間の観光案内所を立ち上げる構想を温めていて、これがヒアリングすればするほど周りから『無理だ』と言われていたんですね。そう言われると、じゃあやってやろう、と(笑)。それで初めて会社の設立を経験したんですが、いきなり収入印紙代で16万円とか、何それ?って(笑)。会社を興すことがこんなに大変だとは思わず、知ってたらやらなかった。何で誰も教えてくれなかったんだ!という感じでした。」

    移住して1週間ほどで運転資金も生活資金も心もとなくなり、観光ガイド業で凌ごうとした後藤さんだったが、最初は土地勘もなく苦戦。首里城への案内もままならず、車で市内を3時間走った挙句たどり着けなかったことも。

    「失敗も多かったですが、何とかお客様のニーズを聞き出しながら、オーダーメイドのガイドサービスができるようになっていきました。するとある時、東京のテレビ局から沖縄ロケの現地コーディネートの依頼が入ってきたんです。『微妙な面白いやつがいるぞ』と、そこから業界内で話が広がったらしく、スポーツ選手やアーティストの来沖時のアテンド、番組ロケのコーディネートといった仕事を受けるようになりました。」

    親戚もいない沖縄で、未経験の観光領域に挑んだ後藤さん。「逃げ場ゼロでしたが、後は攻めるだけだった」と、がむしゃらに仕事に打ち込んだ。その後約10年にわたり、着々と観光領域で成果を重ねていった後藤さんだが、特に離島地域が抱える深刻な課題にたびたび直面。日を追うごとに、それは看過できないものになっていったという。

    「観光という切り口であれば、僕ひとりが食べていくことも、僕が接点を持った相手が食べていくこともできるけれど、そこから先がないんです。これでは地域経済はつくれない。だったら、人も送りつつ、モノも買いつつ、さらに仕事もお渡しできるようなしくみづくりをしたほうがいい、と思い始めました。それで観光の仕事から離れ、新会社「萌す」を興してスタートしたのが鮮魚の輸出ビジネスですが、実はもうひとつあります。『月5万円ビジネス』と呼んでいる取り組みです。」