今回は半農半画家として富良野を拠点に活動するイマイカツミさんを取材。
ふるさと納税には富良野の水彩風景画の画集をはじめ、イマイさんが描く絵をあしらったグッズなどを出品されています。
大阪府のご出身で、海外でも絵を描き続けていた彼が、富良野に魅せられ移住したきっかけとはなんだったのか?そして画家・農家に加え、2023年から宿業も始めた今、富良野で叶える自身のありたい姿とは?
スポーツマンから一転、文学・芸術の道へ
ーイマイさんが絵に興味を抱いたきっかけを教えてください。
「芸術という分野にしっかりと触れたのは、高校のラグビー部時代ですね。当時、僕は鉄欠乏性貧血だったんですが、それに気づかずに中学から高校2年生まで部活を続けていました。以前は体力があったのに、なぜかすぐに息が上がったり周りのみんなについていけなくなったことに、もどかしさを感じて悩んでいた時期です。
そんな時に悩みを聞いてくれた相手が“本”だったんです。本の中には共感できるものがたくさん詰まっていて自分を理解してくれる、まるで友達のような存在でした。それがいつしか自分もこういったものを作りたいと思うようになり、文学や芸術にどんどん気持ちが傾いていきました。
そこから成蹊大学の日本文学科に進学し、美術部に入部。周りは高校時代から美術部に入っていた人ばかりで、ほとんどが油絵を描いていましたが、周りと同じことをしても絶対に勝てないと思い、油絵ではなく水彩画を描くことにしました。
子供の頃から絵を描くことがとても好きで、当時は大好きなドラえもんばかり描いていたんです。友達から『ドラえもんの絵を描いて』と言われて描いてあげると、すごく喜んでくれて僕も嬉しかった記憶があります。
でも『少女漫画の主人公を描いて』と言われた時は、上手く描けなくて悔しい思いをしたり、自分より上手い同級生が描いた絵を今でも覚えていたりと、“もっと上手い絵を描きたい”という負けん気はその頃から今もずっとありますね。」
ー大学卒業後は一般企業に勤められたようですが、本格的に絵の道に進むと決めたのはいつ頃ですか?
「1999年の5月、大卒で入社した会社を1年2ヶ月で辞めた時です。
大学の頃は海外に絵を描きに行ったりしていましたが、会社に入ると仕事が忙しく、休みの日しか絵を描く時間を確保できなかったんです。
絵の専門教育を受けていない独学で絵を始めた僕にはそれじゃ時間が足りなくて、画家としてのスタートを切るなら早い方がいいと思い、ほぼ見切り発車で退職しました。」
ー今の水彩画のスタイルができるまでにはどんな経緯があったんですか?
「大学時代は水彩画を描いていましたが、会社を辞めた後の2年間は東京のアパートに閉じこもって油絵を描いていました。一番苦しかった僕の暗黒時代です。
『時間もできたしこれからは自分の絵が描ける』と思って会社を辞めたのに、技術的にも未熟だったし、いざ描き始めても思うように絵ができなかったんです。
絵を書くときは、“何を・どうやって・なんのために描くか?”という3つが揃えば、僕は絵が描けると思っているんですが、当時はその3つ全てが揺らいでしまって、自画像や風景などいろいろ描いてみたけど何もしっくりもこなかった。
それで最終的に、油絵をやるのは100万年早いということを悟ったんです。僕はここで一度、大きな挫折をしたんですよね。」
挫折を機に出会った、富良野での生活
ー油絵に挑戦して挫折を経験されていたのは驚きでした。そこから農作業ヘルパーとして富良野にいらしてますが、どんな経緯だったのでしょうか?
「暗黒時代の後半になると、朝起きて絵を描こうと思っても絵と向き合うのが嫌で、要するに自分と向き合うのが怖くて、用もないのにアパート前のコンビニに行って適当に本を捲って現実逃避する癖がついてしまったんです。
当時は引っ越しのアルバイトをしていましたが、ちゃんと仕事をしなければとアルバイト情報誌を見ていたら、富良野の農作業ヘルパーの募集を見つけました。高校時代の修学旅行先が富良野だったので、漠然と“富良野は良いところ”というイメージがあり、『あそこに行ったらなんかいい絵が描けるかもしれないなぁ』と思いました。農業という仕事があり、寮があるから住むところにも困らない、そして何より環境を変えるため、農業ヘルパーとして1年間富良野に移り住むことにしました。
農作業自体とても楽しかったですね。体を動かすのも気持ち良かったし、寮でみんなとワイワイやるのも楽しかった。そして一生懸命働くと農家さんが喜んでくれる。僕は東京で丸2年絵を描いていたけど、本当に独りよがりでいい絵もできないし、何の役にも立てていない気がしていたので、昔同級生にドラえもんを描いて『ありがとう』と言ってもらったあの喜びや役に立てている実感を富良野でまた感じることができたんです。
絵に関しても、油絵を描く前にできるだけ基礎に近いことをやろうと思い、鉛筆で風景のスケッチを始めました。」
ーその後ユーラシア大陸一周スケッチ旅行に行き、また富良野に戻られていますね?
「海外では一年中毎日のように世界中のまちを鉛筆で描いていました。そしたら僕、絵が上手くなったんですよ。そして『絵を辞めたくないな、鉛筆で描いた絵に次は色をつけたいな』と思うようになりました。
風景スケッチの第二段階が水彩画だったんです。『富良野に行けばまたいい絵が描けるかもしれない、富良野の風景画にも色を塗りたい』と思い、2005年に再度農作業ヘルパーとして富良野に戻り、そこからずっと富良野に暮らしています。
描き続けている絵がこなれてきたら、いずれは辛酸をなめた油絵に戻ろうと思っているのが、実は今の段階なんです。60〜70歳過ぎになるかもしれないけどイメージは沸いていて、“何を・どうやって・なんのために描くか?”の3つが今の自分の中にはしっかりとあるんです。」
画家・農家・宿業で三足のわらじ
ー半農半画家として活動されていらっしゃいますが、現在の画家と農家の活動比率はどのようになっているのでしょうか?
「自分の畑ではアスパラガス、そして今年からふらのワイン用ぶどうの栽培も始めました。また、農作業ヘルパー時代のご縁でスイカ農家さんのお手伝いもしています。
画業に関しては、7年くらい前から富良野高校の美術の非常勤講師をしていたり、北海道新聞に連載を持たせてもらったりと、昔に比べたら画家の比率が増えてきていますね。」
ー半農半画家にプラスして、今年から宿業を新たに始められましたね。
最初は宿をやるつもりはなかったんです。納屋を何かに使えるように改装したいとずっと思っていたので、まずは絵を飾れるスペースにするために整えて、せっかくならと水道を通して、さらには友人が遊びに来た時に泊まれるようにと手を加えていくうちに、宿業ができるくらいに整備できそうだなと思い、現在のFURANO SHEDs(フラノシェッズ)になりました。
僕は“富良野はいいところ”ということを伝えたくてさまざまな活動をしていますが、画家と農家では直接伝えることができません。でも宿のホストとなれば僕の口から直接伝えられるという思いもありました。
一般の宿泊客をはじめ、ワークスペースとして利用するワーケーションでいらした方や社員の働き方を考える企業の方に対して、実際に富良野で空き家を購入して暮らしている僕が『こんなライフスタイルもありますよ』と見せて伝えられたら、移住だけではない富良野との関わり方の選択肢が広がり、『富良野はいいところ』だと思ってくれる方が増えるのかなと思っています。」
富良野の良さを余すところなく伝えるために
ー イマイさんが一番好きな風景はどこですか?
「よく描くのは、清水山のぶどう畑です。何度もこの辺りの絵を描いてますね。
手前にはぶどうが実っていて豊かさを感じますし、下を見ると旭川方面まで続く田園風景が広がり、その中には異国を感じさせる色鮮やかなトタン屋根がポツポツと点在しています。そして奥には、これらを見守るように十勝岳連峰がずっしりと構えている。もう本当に大好きな風景です。」
ーイマイさんが思う富良野の魅力はなんですか?
「“人”と“風景”ですね。
富良野の人たちがいなかったら、今の自分はいないと思っています。富良野に来てできたご縁から絵の仕事につなげていただいたり、時には助けられ、時には“リアル 北の国から”のような個性的な人たちに揉まれながら、楽しい時間を過ごしています。
そして風景に関しては、富良野に来たばかりの5月の夕方、寮の自転車で出掛けた時に見た景色にとても感動しました。水が張られた水田に夕日が反射して、揺れた水面がすごく綺麗だったんです。富良野の日常には絵画のような景色があると思います。
そしてこの風景をつくっているのは、紛れもなく富良野の人たちなんですよね。彼らにはそれぞれの美意識や、自分の畑をきれいにしよう、まちをきれいにしようという思いがあって、僕はその総和がこの景色だと思っています。普段はそれぞれの個性を発揮しているけれど、それがごちゃごちゃせずこんな景色をつくり上げるなんてすごいことです。だから風景がすごいことには変わりないんですが、実はこの景色をつくっている富良野の人たちがもっとすごいんじゃないかなって思っています。
僕は画家として、今でもなぜ富良野の人たちがこんな素晴らしい景色をつくれるのかを探っていますし、僕の絵を見てくれた方にも伝わるといいですね。」
ー画業に関してはいずれ油絵を描きたいとのことですが、農業や宿業も含めたご自身の展望をお聞かせください。
「僕は自分の活動を通して、画家としてくすぶっていた時の僕を救ってくれた富良野の役に立ちたいと考えています。
そして富良野の良さを伝えようと、富良野の風景を描き、農業を続け、宿業を始めました。今後もこの3つを軸に、少しでも富良野のお役に立てたらいいなと思います。」