Profile
成田菜穂子
NPO法人 森の生活 東京都出身
1996年ごろ移住
筆者が下川町に移住し、まだ数日しか経っていない頃。「美桑(みくわ)が丘」と名付けられた森で、薪小屋を作るワークショップがあると聞き、ドキドキしながら参加したことがありました。
家族も友人もいない下川町で「はじめまして」の人たちに囲まれ、口の中がカラカラに乾き、立ち尽くしていました。
すると、テキパキと動く女性が目に入りました。緊張する私に、薪の積み方や電動ドライバーの使い方を教えてくれたその女性が、今回インタビューをした成田菜穂子さんです。
NPO法人 森の生活(以下、森の生活)のスタッフとしてはもちろん、畑作業や映画の自主上映会の企画、不定期で音楽の演奏も楽しんでいる菜穂子さん。
今回は、下川町にたどり着いた経緯と、主に畑作りを通じた町内での暮らしを伺いました。(インタビュー:2023年7月)
「足がかりになれば」と思って来たら
大学を休学して、釣りをしながら、車で国内を旅していたことがありました。
名寄市(*1)に、当時一緒に旅をしていた人の知り合いが住んでいて。その人の家に滞在していた間、町内のカレー屋さん「モレーナ」のオープンに向けた作業を少しお手伝いしたり知り合いができたりして、下川との縁ができました。
その時は、1週間くらいいたのかな。
本州に戻り旅を終えたあと、自分たちの土地を見つけて自給自足の暮らしをしたいと思うようになりました。
ちょうど同じ時期、下川町で出会った方から連絡をもらい、夏にもう一度来ることになって。今度は1ヶ月くらい、下川に滞在しました。
そのあと大学へは復学したけれど、旅先で出会った、畑をやったり薪ストーブを焚いたりして暮らしている人たちの生き方のほうが、自分にとってはいいんじゃないかという勘がはたらいて……。
大学では建築を専攻していました。高校で進路を決めるとき、特にやりたいことはなかったけれど、漠然と空間デザインに憧れみたいなものがあって。
進路について考えていた時期に読んだ本に、建築について書かれた一節がありました。「建築は、建物を作ることを考えるだけではない。人の生きる空間全体を考えて作ることが建築なんだ」というような内容で。
結果的に選んだ進学先が当時通っていた大学でしたが、建築家になりたいわけではありませんでした。
結局、大学を辞めて次の年には下川町に移住しましたね。
それが、25年くらい前。当時は下川に住み続けるなんて想定していなかった。北海道のどこかで、自分たちの理想の土地を見つけられたらいいなとは思っていたから、その足がかりになれば、くらい(笑)。
地域に対する強い理想もなくて。ただ、自給自足の暮らしをしながら、自分たちが住む家を建ててみたくて、たどり着いたのがたまたま下川町でした。
(*1)名寄市:下川町の隣町
こんな熱い思いを持った若者がいるんだ
移住後は、酪農家さんに空き家を紹介してもらって家を直しながら住み始めました。
そのあと、子どもができてからは子育てに専念していましたが、離婚を機にパートとして働くようになって。娘たちが中学生くらいになるころ、そろそろフルタイムの仕事を探そうと思っていたタイミングで「フプの森」の面接を受け、働き始めました。
「フプの森」で販売していたトドマツの香りがする枕づくりを、入社前から手伝っていた縁もあって。ただ、そのあと家庭の事情で下川を離れる決心をしました。
家族で話し合って決めたんですが、最終的には息子の突然の猛反対にあい、住み続けることになって。
すでに下川町を出る決意をしていたから「フプの森」は辞めていたので、どうしようか考えていたところ「フプの森」の社長の田邊真理恵さんから森の生活を紹介してもらい、入社することになりました。
働き始めてすぐ、宿泊施設「森のなかヨックル」(以下、ヨックル)の管理を任されました。
ヨックルには、ヨックルガーデンという畑があります。ヨックルガーデンは、町内の有志の「ヨックルガーデンサークル」の方々の協力を得て、手入れしていました。
当時は、施設の管理も畑作業も、ほとんどぜんぶ私ひとりで行っていたから、ヨックルガーデンサークルの人たちが、同じ目的を持つ仲間のような存在になっていきました。
今まで、そういう形で地域の人たちと関わることがなかったから、新鮮でしたね。
しばらく経って、ヨックル以外の事業も手伝うようになりました。
森の生活が管理している「美桑が丘」という森でワークショップを企画したり、いろんな人と知り合ってコミュニケーションをとるようになったり。
すると、自分自身の考えの変化を感じるようになりました。「どうしたら持続する地域を作れるんだろう」と考えながら、仕事をするようになったというか。
それに、町に対して意識が変わった印象的な出来事があります。
6年くらい前、いまケータリングのお店をやっている矢内啓太くんとフルーツトマト農家の及川くん、それから役場職員の和田さんの、同級生3人組から「ヨックルで朝食セットを出しませんか」という提案をもらったことがありました。
彼らは、下川町で育った人たちです。私の出身は、多摩ニュータウンという新興住宅地だったから、おらが村みたいな意識は、もともと強くはありませんでした。だから「自分たちが暮らす地域の良さを、いろんな人に知ってもらいたい」と話す3人の思いを聞いて「こんな熱い思いを持った若者がいるんだ」って感動して。
この出来事をきっかけに、下川町をなんとなく一つの町や地域として、考えるようになりましたね。
「分からない」ことから始まる世界
2021年からは仕事とは別に、ドキュメンタリー映画を自主上映する「下川すまっこシネマ」という活動もしています。
あるとき、その活動の一環で「菌ちゃん先生(*2)を呼ぼう」ということになりました。
本来、人間の体は食べたものでできているし、土に触れることで免疫力が高まるはず。でも、コロナ禍で過剰な消毒が増えて、子どもたちの免疫力や丈夫な体づくりに対して不安や疑問を感じる仲間がいることが分かりました。
そこで、菌ちゃん先生の講演会を町内で行って先生が出演されている『いただきます2』という映画を上映しました。
その翌年には2回目の菌ちゃん先生のお話会と、ヨックルガーデンを使ったワークショップを行いました。
私自身、畑の作り方に興味があったのはもちろんですが、家庭菜園の規模でできる方法として下川の中でも広がると良いなという思いもあったんです。
菌ちゃん先生は雑草や生ごみなど、身の回りにあるものを使って畑作りをします。
日本で売られている肥料の多くは輸入されたものですが、わざわざ遠くから運んできたものを使い続けるのが本当に持続可能なのか疑問でした。
地球環境がどうやったら良くなるのかとか、自給自足の暮らしがどうやったら実現できるのか、すべては分からないし、かんぺきにはできない。
けれど、少しずつでも考えたいなと思っています。
学生時代に読んだ、養老孟司さんの『唯脳論』という本の中に、今でも覚えている一節があります。
がんの宣告をされた人にとって、体のこととか周りの風景などの客観的な事実は何も変化していないけど、宣告をされる前と後で世界はガラッと変わって見える、という例え話です。
人によって考え方は違うし、それぞれが考えていることも捉え方によって変化するというようなことなのかなと解釈しました。
なんとなく、変わっていくものとか変化し合う流れのなかで、私たちは生きているのかなって。
もともと私には「自分は世の中のことをほとんど何も分かっていない」という認識があるんだと思います。
大学生のとき、炊飯器のタイマーをセットしたときに、ふと「なんでボタンを押すと決まった時間にお米が炊き上がるんだろう」って不思議に思ったんです。
「私は自分の知らないものに囲まれて生きているんだ」と、ハッとしたんです。
だからこそ、「分かっていたい」「理解したい」という気持ちがあるのかもしれません。
畑に興味があるのも、その気持ちが理由なのかな。自分が理解できない・分からないものに囲まれているのが、なんとなく嫌で。
でも自分の畑で作ったものは、いつ蒔いた種からできて、どんな苗で、どういう環境で育ったのか明白ですよね。
仕事や畑作業を通じて、目に見えないもの──それこそ菌みたいなものに囲まれて私たちは生きているという感覚が、なんとなく分かるようになってきた気がします。
今やっている活動や下川での暮らしが、しっくりきているというか。自分のペースで考えたり手を動かしたりできるし、何かにわずらわされることもないですしね。
(*2)菌ちゃん先生:有機野菜農家の吉田俊道さん
Text:Misaki Tachibana Photo:Yujiro Tada