全国のファンからの注文が絶えず、御浜町のふるさと納税ランキングでも常に上位に位置する梅農家がいる。
御浜町に畑と住まい、工房を構えてまもなく20年を迎える松本農園の代表・松本清(まつもと きよし)さん 40歳だ。
大粒でやわらかく、ふっくらとして口どけのよい松本農園の梅干しは、一度食べたらやみつきになる美味しさで、お客さんのほとんどがリピーターだという。
「年中みかんのとれるまち」としてみかんのイメージが強い三重県御浜町だが、実は梅も特産品。清さんいわく、降雨量の多さと礫質の土地柄、本場和歌山と比べても皮が薄くふっくら柔らかい南高梅ができるという。
とても小さな産地だが、知る人ぞ知る、御浜の南高梅。そこで清さんがつくる梅干しは、テレビをはじめとしたメディアにも頻繁に取り上げられている。
梅の本場である和歌山県田辺市生まれの清さんが御浜町に移住したきっかけや、御浜町での暮らし、梅づくりについてなど、お話を伺った。
この記事の目次
梅農家5代目、地元を離れ御浜へ移住
和歌山県田辺市出身の清さんは、代々続く梅農家の5代目として生まれた。
高校までを田辺市で過ごした後、神戸の専門学校でビジネスを学び、ツアーコンダクターになりたいという夢を持っていた。妻の裕美さんとも、学生時代に出会っている。
「卒業直前に、親父から『梅農家やってくれへんか』って言われて。長男なんで、しゃーないかなって感じで引き受けました。そんな感じで継いだわけですけど、本当に楽しいですよ。男三兄弟で、結局弟も今は農業やってるんですけどね」
当初は田辺の梅畑と父親の代で新しく持った御浜の梅畑とを行ったり来たりする生活だったが、22歳の時に御浜の畑の責任者として、妻の裕美さんとともに御浜に居を構えることとなった。
もともとは “梅の木の病気のリスク分散” として親の代で持った御浜の梅農園だったが、のちに清さんは経営を切り離し「株式会社松本農園」を立ち上げた。
子どもたちが穏やかに育つ「ほんまに最高の町」
「御浜は海がとにかく綺麗だなって。僕は全然海は好きじゃなかったんですけど、めっちゃ好きになりました。田辺の海は地形が割と入り組んでいるんですが、御浜の海は青く開けて見晴らしがよくて。子どもを連れてよく遊びにいきましたし、今でもふらっと海を見に出かけたりします」
兵庫県神戸出身で都会生まれ都会育ちの奥様・裕美さんはというと、田辺市で生活するつもりが、さらに実家から遠い御浜町に住むことになり、はじめはその距離に戸惑ったそうだ。
住まいは、自然豊かな御浜町の山間部。虫もあまり得意ではなかったが、20年近くが経ち、今では気にしないくらいにはなったのだとか。
御浜町に来てすぐの頃に長男が生まれ、3年後には長女が生まれた。地元の保育所と学校に通わせ、現在は高校生の長男、中学生の長女と4人暮らしだ。
「御浜の人たちみんな同じこと言ってるんじゃないかって思ってるんですけど、御浜って子育てにはめっちゃいいなって。ほんまに最高やと思います。素直で穏やかな子が育つというか。うちの子は二人ともめちゃくちゃ学校が好きだし。ちょっとやんちゃな子もいたりしますけど、根はほんとうに優しい子ばっかりで」
と清さん。
御浜町にはいわゆる娯楽施設のようなものがない分、家族で過ごす時間が多く、親子の心の距離も近いことが松本家の家族円満の秘訣。みんながお休みの日は自宅の庭でバーベキューが定番で、地元の肉屋で買える紀和牛や、紀北町の牡蠣など、地域の美味しい食材を楽しんでいるそうだ。
松本家が住むのは山間部寄りの地域なので、保育所や学校までの距離はどうしても遠くなり、送迎なども必要になる点は少し大変かもしれない。
しかしそのデメリットを補って余りあるほど、子育てには素晴らしい環境だと感じているという。学習塾やそろばん、習字、ピアノ、バレーボールなど、習い事も問題なく通わせた。
「ご近所との関わりは、良い意味で都会ぐらいの距離感がありますね。僕の住んでいるところは、一軒一軒の家が離れていることもあって(苦笑)。お互いあまり干渉しないし、いきなり家に誰かがくるとかもないですし。その辺はすごく過ごしやすいなって思ってます」
土日イベントの出展などで留守にすることの多い清さんは、行事などに参加することが難しい。しかしそれを補うように、例えば町の広報誌の配布係を人よりも多くこなしたり、地域の草刈りでは、自分ができる時間で事前に草を刈っておいたりするそうだ。
参加が難しいのであれば、何ができるのか?こういったコミュニティの中での配慮は”田舎暮らし”の大事なコツと言えそうだ。
生産から加工、販売まで、全てを一手に
清さんが経営する松本農園の大きな特徴の一つは、梅の生産から加工、そして販売まで全てを自社で行なっていることだ。
「御浜の南高梅は柔らかいんですよ。口溶けが抜群に良い。皮も本当に薄いのが育ちます。和歌山の梅よりも柔らかいですね。ただ、商品としては扱いが難しくて。柔らかすぎるので加工しにくいんです。機械が使えなくて、仕方ないことなんですが、生産者的には大変です(苦笑)。」
「みかんがあって、柿があって、梅があって、和歌山と同じ紀伊半島で、御浜町の辺りも地形が似ていて梅もちゃんと育つんだろうなっていうことは思ってたんですけど、御浜の梅の方が柔らかくて美味しいと、僕は思っています。」
知名度は低い、小さな小さな産地である三重県御浜町の南高梅だが、レベルは高い。
「この梅を日本中の人に知って欲しい。」そんな想いから、松本農園は御浜から梅干しを積んだ車を走らせて、全国各地のマルシェやフェアなどで対面販売をしている。
梅の木を育てて実を収穫し、加工してお客様の手元まで届ける。ここまで全てを一貫してできるのは、全国を見渡しても松本農園の他にはないのでは、と自負する清さん。これは間違いなく強みであり、ブランド力を底支えするものになっている。
「一番大変なのはやっぱり収穫ですね。完熟して木からネットに落ちたものを拾うんですけど、かなり過酷な作業で、漁師さんとか土木作業をしている人たちが来てくれても、過酷すぎて次の年は来てくれなくなっちゃうんですよ(苦笑)。時給を高くしてもなかなか人が集まらなくて。僕なんかは収穫の時期はアドレナリンが出てるんで風邪もひかないし、今残ってるメンバーも多分そんな感じで、超人ばかりですね(笑)」
6月の初旬から7月の頭にかけて収穫した梅は、まずは塩だけで漬けて梅干しにする。松本農園では「熟成 無添加しらぼしうめぼし」という商品名で売り出されているもので、この状態ではなんと100年は保つという。
ここからさらに二次加工場で、はちみつ入りの調味料や赤紫蘇などで調味加工をする。松本農園で一番人気なのは「はちみつうめぼし」だ。爽やかな甘さがあり、酸味が苦手な人や、お子さんでも美味しくいただける。清さんのイチオシは「無添加しそうめぼし」。塩と赤紫蘇だけのシンプルな材料で漬け込み、飽きずに食べ続けられるところが気に入っているそうだ。
清さんも以前は、梅農家というのは、梅を収穫して干して塩漬けにして出荷するまでが仕事だと思っていた。しかし価格の変動が激しく、豊作の年が何年か続くと、生産原価の半額ほどでしか買ってもらえないということが定期的に起こった。そんな状況では食べていくのもやっとだった。
「25歳くらいの頃でしたね。本当にギリギリの状態で、お菓子とか牛肉なんて買えない。牛肉どころか豚肉も安いコマ肉しか食べられなくて。このまま、ただ梅を作って一次加工だけしてるだけでは絶対無理やろなって思って。加工にも手を伸ばそうって決めたんですけど、みんなから反対されました(苦笑)。お金もないし、加工っていうのは加工専門でやってるところがあるので、『餅は餅屋やろ』って」
しかし清さんの決意は固かった。梅農家をこの先も続けていくために、妻の裕美さんや両親、義理の両親の反対も押し切って、なけなしの20万円で独立起業して二次加工場を新設。次の一歩を踏み出したのだった。その一歩が現在の松本農園の躍進につながっていることは言うまでもない。
「お金がなかったので、最初はネットオークションでドリルを買って、自分でコンクリートを割って排水の工事したりして。でも慣れないもんだからめっちゃ雑で(苦笑)。少しずつ少しずつ資金を回して、業者さんにお願いできるようになって。そうやって毎年少しずつ設備を良くしていったって感じですね」
実が柔らかい梅は加工にも気をつかう。機械では実が破れてしまうので、松本農園では全ての加工を手作業でおこなっている。今目の前にある梅干しひとつぶが、たくさんの人の手を介してここに届けられていることを思うと、感慨深いものがある。
おいしさはもちろんだが、おしゃれなパッケージデザインも目を惹く松本農園の商品。これは裕美さんが知り合いのデザイナーさんと一緒に作ったものだそうだ。昨今では、こういった農産加工品でも工夫のあるデザインで売り出すものも多くなってきたが、松本農園はかなり早くから取り組んできた。
松本農園は、ウェブサイトも格好良い。グレートーンに洗練された写真が掲載され、一般的な梅干しの販売サイトとは一線を画している。日頃積極的に梅干しを買うというわけではない層も、デザインが目に留まり、そこからファンになるということも十分にありそうだ。
挑戦し続けるのは、お客さまの顔が見えるから
松本農園の商品は、御浜町内の「道の駅 パーク七里御浜」のお土産処「浜街道」をはじめ、全国各地の地場産品店や百貨店、セレクトショップなどで購入できる。
また、月に一度オンラインストアでの販売もしている。オンラインストアでは、10kg単位の業務用の梅干しや、梅酒、ねりうめなどの限定商品の販売もあるが、人気のあまり毎月あっという間に売り切れてしまうとか。
畑の梅の世話や加工、イベント出展と、日々の仕事が忙しいこともあり、常にオンラインストアを稼働させるのはなかなか難しい。そこで、月に一度くらいのペースで、一週間ほどの期間を設けて集中的に出荷作業にあたっているのだそうだ。
さらに特徴的なのは、全国のマルシェやフェアなどでの対面販売だ。なんと年間でのべ70日はどこかのイベントに出展しているのだというから驚く。
東は東京から、西は九州・熊本まで。清さんが福岡で出展している一方で裕美さんが静岡で出展、ということもあるのだとか。
大きなイベントでは、二人のお子さんたちもアルバイトとして手伝ってくれることもあるそうで、子どもたちの協力あってこそだとか。
「イベント出店で買ってくれる人のほとんどがリピーターさんですね。ほんとにリピーターさんに支えられています。イベントで買ったものを気に入ってオンラインで買ってくれたり。遠くで出店した時に、御浜出身の人が声をかけてくれたり、熊野だとか那智勝浦の人が立ち寄ってくれることがあって、そういうのも嬉しいですね。しんどいこともありますけど、めっちゃ楽しいですよ」
交通アクセスが良いとはなかなか言えない御浜町から、車で梅干しを積んで出展しに行くというのはかなり大変だ。それでも毎年出展を続けるのには、対面販売ならではのお客さんとの交流を楽しんでいること、そしてそれを大事にしているということ。
自分たちで梅を育て、収穫、加工をしてお客さんの手元まで届ける。全てを一貫して行うからこその強みとプライドが、清さんにはある。
「御浜はみかんの町ですけど『梅もあるんや』って言わせたいですね」
「新しさ」「面白さ」「驚き」を求めて
毎年のように新しいことに挑戦し続けてきた清さん。最近では、尾鷲市の鰹節店大瀬勇商店とコラボレーションした「かつおうめぼし」や、裕美さんが好きだという「のどぐろ」を使った「のどぐろうめぼし」などを開発している。設備の問題などがクリアされれば、今後は梅シロップなどにも着手したいという展望もある。
インタビューの中で、松本農園での仕事を「与えられた仕事を、当たり前に淡々とこなすだけです」と清さんが話す場面があった。毎年同じことを繰り返して維持するだけでも大変なことであるのに、そこからさらに新しいことに挑戦することは「当たり前を淡々とこなす」の上をいく行動のように思えて、詳しく尋ねてみた。
「お客さんに飽きられるのが怖いっていう気持ちが結構大きいと思うんですよね。1回2回と来てくれて、5回10回と来てくれてたのに、あれ来てくれなくなったな、とか。嫌だし怖いです。だから来てくれたお客さんに、驚きとか、面白いなって思ってもらいたくて。新しいことは、実は”恐れ”からやってたりしてますね(苦笑)」
お客さまにいつも新しい出会いや発見や驚きがあるように。次の展開を模索し続ける姿勢ごと、清さんの「当たり前」に含まれているのだった。食べたことのない商品があったら試してみたくなるし、それは松本農園がつくるものだから間違いないだろう、という信頼の上に成り立っている。
勉強したい人を歓迎したい
松本農園の精力的な取り組みを知って、「自分も御浜で梅農家をやってみたい」と思う人も少なからずいるのではないだろうか。
「梅は正直ハードルは高いと思います。ただ収穫して納めるだけではなかなか食べていけないので。作業がハードなのもあるし、日本中にたくさん梅農家さんがいますしね。ただ、御浜町には耕作放棄地はたくさんあるので、うちでまずゆっくり勉強をしてから独立したいなんて人がいたら、めっちゃいいなって思います」
松本農園では、パートタイムでも、自分のライフスタイルに合わせてフレックスタイムで働くことができる。
梅の収穫の時期には毎年募集もかかり、時給も高く設定されている。
スタッフの募集は常にしているわけではないが、熱意のある人がいれば、松本農園のHPからぜひ問い合わせてみて欲しいとのことだった。
フクロウの声を聴きながら眠る暮らし
御浜町に来てまもなく20年近くが経つ清さん。今の御浜町の印象を伺った。
「移住者めっちゃ増えたなって思います。うちの従業員でも何人か移住してきた人がいますし、うちにこれだけいるってことは町全体としたら他にもたくさんいるんやろなって。うちは結構山奥なのでちょっと不便なところもありますけど、今は欲しいものもネットで買って翌日届いたりしますしね。
都会にはたまに行くのが楽しいですし、休みの日は家族でバーベキューして、季節を感じて、星も本当に綺麗で。夜はフクロウの鳴き声聴きながら寝たりして。周りの子どももみんな真っ直ぐないい子ばっかりで、ほんといいところやなって思います。」
終始笑顔で話す清さんに、こちらまでワクワクしてしまう。忙しい毎日だが、心から仕事に誇りを持ち、ここでの暮らしを楽しんでいるのだということが言葉の端々から滲み出ていた。
「こんな風に生きてみたい」。そう思わせる清さんの背中を追う人が、きっとこれからも現れ続けるだろう。
(2024年1月・2月取材)
▼愛知県から移住して、みかん職人になった寺西さんの物語▼