「あれ、今日ズッキュンで来てないんだ。」

1人でいる時や、他の友達と遊びに行っている時、よくこうやって言われるようになった。ありがたいことに、ズッキュンゴリラの活動を認知してもらえるようになって来て、嬉しいな。でもね、なんかモヤモヤしてるんだ。

私たちには、「野中小鈴」「安武萌」と「ズッキュンゴリラのコリンとモエ」の2つが存在している。いつもは「野中小鈴」と「安武萌」として生活しているの。例えば、個人的に好きなことをやってる時、他の友達とご飯に行く時、私たち2人で温泉に入ってる時とかね。唯一、ズッキュンゴリラの活動をしている時だけは、「野中小鈴」「安武萌」の中にある「コリンとモエ」が出てきて、考えたり話したりしているんだ。

最近、「野中小鈴」「安武萌」としてその場にいるときでも、「コリンとモエ」として見られているな、と感じることが多くなった。「野中小鈴」と「安武萌」はそれぞれ1人の人間で、別々の行動をすることだってあるのに、「あれ、今日ズッキュンで来てないんだ。」という言葉からは、「コリンとモエ」が一緒にいないことへの違和感を持たれているように感じる。ズッキュンゴリラの活動をしていない時も「コリンとモエ」でひとつだから、「野中小鈴」だけ、「安武萌」だけだったら違和感を感じるの?

ズッキュンゴリラの存在を知ってもらえるようになって嬉しい反面、みんなの中の「ズッキュンゴリラのコリンとモエ」の存在が大きくなりすぎて、私たちの仲良い子達も『「野中小鈴」「安武萌」=「コリンとモエ」』だと思ってる。SNSのプロフィールで簡単にわかる正解「コリンとモエ」を知っただけでは、「野中小鈴」と「安武萌」の中にある他の正解たちは分からない。この事に関係なく多くの人が、世の中の簡単な正解を知っただけで他の正解を追求するのをやめちゃってる。

「正解を追求する」とは「ズッキュンを追求する」ということだな、と思う。ただの「好き」とは違う「ズッキュン」は、追求するには頭も体力も使う。その場所に行って、話を聞いて、考えて、はじめてズッキュンする。「好き」が受動的なら、「ズッキュン」は能動的なのかな。例えば、友達と服屋さんに行って私たちが着ていそうなカラフルな服があったら、よく「この服ズッキュンでしょ」って言われる。だけど、私たちが着ている服は「好き」であって必ずしも「ズッキュン」しているわけではないんだ。愛を持って考えられた服(大切な人からの贈り物、大好きな人の形見、誰かを想ってつくったもの)には「ズッキュン」するけど、必ずしもデザインが「好き」なわけではない。

「自分だけのズッキュンを大切にしてほしい」は、追求の先にある、心の動きを大切にしてほしいということ。「好き」でも「可愛い」でも「おしゃれ」でもなくて、「ズッキュン」を貪欲に求めてほしい。「コリンとモエ」だけじゃなくて、「野中小鈴」と「安武萌」も知ってほしい。マガジンのデザインだけじゃなくて、内容も見てほしい。私たちの周りにも、みんなの周りにも、まだまだあるんじゃないのかな。どれも簡単な正解ではなくて、頭と体力と心を使って能動的に追求しないとわからない正解だけど、それを見つけたら鳥肌が立つくらいの「ズッキュン」があるんだよ!!!!

きっと大分にも、簡単な正解、追求しなきゃ分からない正解、両方がある。

大分のいろんな正解、魅力、ズッキュンを追求していって、心が動く人間でいたいな。

だから、これからも一緒に「自分だけのズッキュンを大切にしていこう」!

 

 

モエ&コリン(ズッキュンゴリラ)

 

【大分の窓】#1 ズッキュンってなんだろう?
モエ&コリン(ズッキュンゴリラ)