記事のポイント

  • 幼少期は本の虫。好きが高じて、気づいたらライターに。
  • 震災移住者のインタビューで気づいた人生で本当に必要なこと。
  • ライター時代に培った言葉の力が旅館の価値を伝える力に。

山口県下関市の奥座敷。かつて自由律俳句の詩人、種田山頭火や世界的なピアニスト、アルフレッド・コルトーが愛した美しい海となだらかな山に囲まれ、良質な温泉が湧き出る川棚温泉。

そこに100年の歴史を誇る旅館がある、それが玉椿旅館だ。
玉椿旅館の特徴は創業者が大阪相撲の十両力士だった玉椿関で、新たな横綱が誕生するたびにその名にちなんだ客間を作り増改築を重ね、有形文化財に指定された建築様式と歴史である。

今回はその旅館を引き継ぐために、故郷にUターンした元ライターの美人女将にスポットを当て、なぜ戻って来たのか、これから何をしていきたいのか、理由や想いをうかがった。

玉椿旅館(国登録有形文化財)

大正12年創業。大阪相撲の十両力士だった山口県出身の玉椿関(藤井光太郎)が、現役引退後に、ふるさと川棚の相撲文化への貢献と地域観光の活性化のためにはじめた旅館。
創業当初は相撲一行の常宿だったそうで、双葉山、玉錦、朝潮太郎など、往年の名横綱も宿泊した。初代館主(玉椿関)が存命の時代には、新横綱が誕生するたびにその名の客間をつくっており、そんな増改築の歴史から、館内全体が迷路のような造りになっている。当時の建築技術の高さはもちろん、全体を通して建築に物語性があるということも評価され2012年に、国の登録有形文化財に指定された。
玉椿旅館HP
http://tamatsubakiryokan.com/

藤井 優子さん

山口県下関市の川棚温泉にあるお相撲さんが作った創業100年の玉椿旅館、4代目女将兼フリーライター。
山口県下関市出身。川棚小学校、梅光女学院中学校・高等学校へと進学し、大学進学を機
に福岡へ。福岡の小さな出版社で2年働いたあと、2011年にフリーのライターとして独立。専門は人物のインタビュー、分野はローカルネタや暮らしのことなど。2017年に地元川棚に戻り、現職。

幼少期を過ごした旅館の思い出

──小さい頃の旅館の思い出は?

旅館は、お客さんがくると電気をたくさん付けるんです。そうすると、客室や廊下はもちろん、調理場とかもそうですけど、ぱっと明るくなります。それから、出入りする女中さんも増えて。活気がある、ああいう感じはとても好きでした。あと、住み込みの仲居さんが自分のおばあちゃんよりも年配の女性たちだったので、とってもかわいがってくださったりだとか、いとことかくれんぼや秘密基地みたいにして、とにかくひたすら広いこの旅館で遊び倒した記憶があります。それから本を読むのが大好きで、本の虫というか、買ったら一晩で読んじゃうからゆっくり読みなさいっていつも怒られていました。(笑)

──小さい頃の思い出が全てつまった旅館ですね。将来、旅館を継ごうという気持ちありましたか?

私はきっと旅館をやるんだろうなってイメージはありました。でも、あんまり現実味をもって考えてはいなかったので、高校を卒業して、よし!じゃあ料理人になりに修行に行きますとか、どこかの旅館に入りますとか、そういうのは全然なかったです。とにかく一回外に出て色々な世界をみたかったので、福岡の大学に進学しました。

──卒業後のキャリアはどのように選択されたのでしょう?

大学は英語学科でした。小さい頃から本が好きだったのもそうだけど、言葉が好きだったので、その延長線上で進路を選んだ感じですね。
就職活動時は、ハードカバーの本を作る仕事をしてみたくて、出版社を志望していました。全国のいろいろな出版社を受けましたが、なんだか完全燃焼できずに気持ちがくすぶっているような感じもあって、新卒のタイミングではどこにも就職しませんでした。それからしばらくして、福岡でタウン誌の仕事ができる会社があったので、そこにいったん入ることにしたんです。タウン誌って領域が広いから色んなことができるかな、と思って。勉強の意味でそちらに就職しました。2年くらいかな、会社員だったのは。

夢が叶った瞬間、まさかの展開へ。

──当時、描いていたキャリアプランのようなものはありましたか?ここで経験積んで今後はこうなりたいというような。

活字の仕事に関しては納得がいくところまでやってみたいと思っていましたが、明確な目標を立てたりはしていませんでした。ただやっぱり一回東京に行って、ずっと読み継がれるようなハードカバーの本を作る仕事をしたいという思いがあって、それで福岡の会社を辞めて、東京のデザイン系の出版社に行くことにしたんです。

でもその3月に東日本大震災がありました。

結果、まさかの無期限で採用見送りということになりました。それって何の保証もなくて、じゃあ待ってますというわけにもいかないし。震災のこともあり、その時初めて両親に東京に行くのをやめなさいって反対されて。仕事も行先も、一旦何もなくなってしまいました。

でも、なぜかそうなったときに、良い出版社に入りたいという気持ちも一緒になくなりました。本や書くことが好きで活字の世界を目指していたのに、いつのまにか肩書とか出版社の看板のほうを欲しがっていたんじゃないかなって。これは、情熱じゃなくて執着だなって。何のよすがもない状態になった時に、もうこれはだれにも頼らず自分で納得のいくものをやるしかないっていう気持ちになりました。看板がなくても本当は書くことが好きでやってたんだから、それさえできればいい、執着じゃなくて情熱でやろうと思いました。それで、その年の夏にライターとして独立することに決めたんです。