●移住先の魅力は?
古い建物を大切に直しながら残している文化や、レトロな街並みなど「私の好きなもの」であふれているところ

●これからチャレンジしたいことは?
街並みを写真に残すことで、町で育つ子どもたちが「川俣っていいな」「自分の町おもしろいな」と思ってもらうきっかけにしたい

●川俣町を訪れる人へのメッセージ
川俣町はウェルカムな方が多くお話好きな方もたくさんいるので、ぜひ車ではなく、町を歩いて楽しんでほしい

川俣町の街並みを舞台に、和洋ミックスの着物を衣装にしたポートレート撮影で町の魅力を発信するフォトグラファーの古関マナミさん。取材にも、カジュアルな着物姿で待ち合わせ場所にいらっしゃいました。上下が分かれた「二部式」という着物に、襟元はドレッシーなフリル、足元はアイボリーのブーツ。この衣装が、川俣町のレトロな街並みにしっくり溶け込みます。撮影場所の設定から衣装、ヘアメイクまで担当する古関さんに、川俣町に移住したからこそ叶えられた夢についてお聞きしました。

まち歩きや買い物を楽しんでもらえるきっかけをつくりたい

――古関さんが撮影された写真を拝見しましたが、川俣町の街並みとレトロな着物やファッションがハマっていてとても素敵でした。

ありがとうございます。私自身、もともと和装が好きだったのですが、まだ子どもが小さいので気軽には着られないと義母に話したら、「じゃあ二部式つくってやっから~」ってたくさん作ってくれたんです。

それを普段から着るようになったのと、着物をたくさん頂いたので、それまでポートレート撮影をしていた七五三だけでなく、観光地でよくある着物を着てのまち歩きって楽しいかなと思い立ち、2023年の初めごろから、川俣町で着物でのまち歩きを撮影する「かわまたまちふぉと」を本格的に始めました。

――「かわまたまちふぉと」とはどんな活動なのでしょうか?

着物や小物、簡単なメイクまでトータルコーディネートして、川俣のまちを一緒に歩いて撮影します。川俣町には古くて立派な蔵がたくさんあったり、古民家やレトロなお店がていねいに修理されていたりと、大切に残されてきた街並みが魅力的だと感じています。日本有数の絹織物「川俣シルク」やふくしま三大ブランド鶏である「川俣シャモ」など名産品が多く、NHKの朝ドラ『エール』のモデルとなった作曲家の古関裕而さんゆかりの地でもありますが、観光コンテンツは少ないので「まちふぉと」をきっかけに川俣に来てくださった方に趣のある建物やお話好きな町の皆さんに触れていただき、まち歩きや買い物を楽しんでもらえるようになったらうれしいですね。

撮影で使う着物や小物は、ほとんどが家族や近所の方から譲っていただいたものなんです。川俣は「シルクの町」、「織物の町」だけあって、着物好きな方もたくさんいらっしゃいます。私の「こんなことがしたい!」という思いを応援して譲っていただいた大切な着物や小物に第2の居場所を与えるような気持ちで、川俣の皆さんが大切に守ってきた街並みと合わせて撮影しています。撮影場所の提供にもご協力いただいているので、まちの皆さんの支えがあっての活動だと思っています。

「まちふぉと」で撮影した写真は「#かわまたまちふぉと」とハッシュタグをつけて、インスタグラムに投稿しています。

趣味のファッションやヘアメイクが、写真の仕事に結びついた

――写真は川俣町に来てから始められたとか。そのきっかけを教えてください。

8年前、結婚する大切な友人がウエディングフォトを撮らないと聞いて、まだカメラも持っていなかったのに「私に撮らせて!」ってお願いしたことがきっかけです。義父母がもてなし好きで、実家にウエディングドレスや着物がたくさんあることを知っていましたし、私はファッションやヘアメイクが好きで美容師を目指していたこともあったので、衣装もあるしメイクもできるし、って。まずは一眼レフを手に入れるために、夫にプレゼンしました(笑)

――すごいですね!その時の撮影場所も川俣町だったのですか?

はい。桜の名所や神社、自宅も活用して撮影しました。その後、自分の子どもたちなどを撮影した写真をSNSで公開していたら、郡山市で当時「おとなの学園祭」というものづくりのイベントを開催されていた方にお声掛けいただき、イベントや商品の撮影をするようになったのが、フォトグラファーとしていただいた最初のお仕事です。そこから次第にオファーが増えてきて「私にできることは写真を通した表現だ」と思い、七五三などポートレート撮影の仕事をオープンに受け付けるようになりました。

七五三の撮影では震災後から川俣町が生産に力を入れている花「アンスリウム」を使うことも

――川俣町には、結婚がきっかけで移住されたんですよね。

出身は福島県の猪苗代町で、高校は関西に進学し、Uターンして23歳の時に川俣町の男性と結婚して町に移住しました。結婚して2年目の、長女が1歳だった時に東日本大震災と原発事故が発生しました。私と家族が住んでいたエリアは避難指示区域ではありませんでしたが、町外に避難する人も多かったんです。でも私はもう川俣町に骨をうずめる覚悟で、町に残ると言った義父母と一緒にいたかったから避難しなかったんです。それくらい、義父母のことが大好きで尊敬しています。

――「義母(はは)が」、と話されるとき、実のお母さんのことかなって感じてしまうくらいでした。

川俣町では、義父母という太く深く根を張ってくれた大木のもと、私は接ぎ木のように暮らしているなと感じます。「まちふぉと」の活動も応援してくれて、近所の方に「うちの嫁さんが、こんなことしたいって言ってるから、なにかあったらよろしくね」と言ってくれたりするので、撮影場所を借りたりするのも本当にスムーズで支えられているなぁと感じています。地縁なく移住される方が、まったく知り合いのいない中で一からコミュニティに入っていかなければならないのを見ていると、私はとても恵まれているなと感じています。

着物や小物は、義母から受け継いだものだそう

「ないもの」ではなく「あるもの」に目を向けると、好きなものばかりだった

取材後、まちに出るとたくさんの方が古関さんに声をかけてきた

――川俣町の子育て環境はいかがでしょうか?

学習塾もいくつかありますし、あまり不便はありません。娘は町で開催される音楽祭「コスキン・エン・ハポン」で披露するフォルクローレ(南米の先住民に伝わる民族音楽)の踊りを習いに行っています。結成15年目の子どものチームがあって、今は40人ほどメンバーがいるんですよ。町の女性が「子どもにコスキンの思い出を残していきたい」とボランティアで指導しているんです。愛しかないような、私も大好きな方。そういう大人がたくさんいらっしゃるのも、町の魅力の一つですね。 私も、自分なりに写真で切り取った川俣町の魅力である街並みや景色、人を通して、川俣って面白いかも!と思ってもらえたり、川俣での思い出になったりするような活動を続けていきたいなと思っています。

――川俣町が、本当に古関さんに合っていたんだなぁと感じます。

結婚してしばらくは専業主婦だったのですが、町の人からは「川俣には何もないから」という話をよく耳にしていました。確かにないものを挙げたらキリがありませんが、「ないもの」ではなく「あるもの」に目を向けると、川俣は私の「好きなもの」であふれていました。

私はたまたま川俣町でたくさんの大切な出会いがあり、「まちふぉと」という活動が楽しいからやっています。いま移住をお考えの方も、移住先でいかに自分が楽しめるか、おもしろがれるかという視点を持っていれば、たとえ初めはひとりであっても、どこでも楽しく暮らしていけるのではと思います。

古関 マナミ(こせき まなみ)さん

1985年、福島県猪苗代町生まれ。フォトグラファー。関西の高校に進学・就職したのちUターン。2009年、結婚を機に川俣町へ移住。ご主人の実家で、義理の両親・夫・子ども3人と暮らす。2016年、友人のウエディングフォトを撮影したことをきっかけにフォトグラファーの道へ。着物やレトロなファッションと川俣町の町並みをトータルコーディネートした「かわまたまちふぉと」活動、ポートレート撮影を行っている。

※内容は取材当時のものです。
文:山根 麻衣子 写真:五十嵐 秋音

※本記事はふくしま12市町村移住ポータルサイト『未来ワークふくしま』からの転載です。