潮の香りがふわりと鼻をかすめる、徳島県鳴門市。

渦潮で知られるこの町の、小鳴門海峡に臨む静かな場所に、ゲストハウス「NOMA yado」はある。大きな窓から差し込む柔らかな光が、木の温もりあふれる空間を優しく照らし出していた。

 

この日、オーナーの能勢信之さんを訪ねたのは、私たち鳴門市移住交流支援センター職員と、鳴門市が主催する「半農半X推進シェアハウス事業」※に参加する4名の男女。

※半農半X推進シェアハウス事業・・・農業と他の仕事や趣味等(=X)を組み合わせたライフスタイルに関心のある人を対象とした滞在・体験プログラム

 

移住や二拠点生活という、それぞれの未来を描く彼らと能勢さんを交え、少し特別な座談会が始まった。

 

「都会から離れて、自分らしい暮らしを」。

そんな憧れを胸に集まった私たち。

しかし、能勢さんの口から語られたのは、「僕の二拠点生活はね、実は親の介護からの『逃げ場』として始まったんですよ」という意外な言葉だった。理想だけじゃない、リアルな言葉が紡ぐ「自分らしい暮らし」の見つけ方とは。

 

穏やかな海を眺めながら、じっくりと話を伺った。

 

左から、半農半X推進シェアハウス事業参加者の高野さん、奥野さん。NOMA yadoオーナーの能勢さん。半農半X推進シェアハウス事業参加者の岡本さん、北村さん

 

第1章:なぜ、鳴門でゲストハウス? 「ビジネス」ではなく「生き方」としての選択

 

半農半X推進シェアハウス事業参加者の岡本さん(右)。観光の魅力に惹かれ、鳴門市でのゲストハウスオープンを思案している

 

職員:まず、移住や二拠点生活の先輩である能勢さんにお伺いしたいのですが、なぜこの鳴門の地で、ゲストハウスを始めようと思われたのでしょうか?

 

能勢さん:僕ね、鳴門市に対して渦潮の街とか、美術館の街っていうイメージがあんまりないんですよ。60歳が近づいて、これからの人生、どうすれば健康で楽しく、持続可能な暮らしができるかなって考えたんです。その答えが、僕にとってはゲストハウスだった。別にこのビジネスで大儲けしたいわけでも、地域おこしをしたいわけでもないんです。

 

職員:そうなんですね。何か特別なきっかけが?

 

能勢さん:もともと大阪でフリーランスの映像ディレクターとして、本当に忙しく働いてきたから、忙しい人の気持ちがよく分かるんです。だから、ここに来てくれる人には、ゆったりと過ごして、本来の自分を見つめ直せるような場所を作りたかった。僕自身のためでもあるしね。それがたまたま「宿」という形だったわけです。

 

岡本さん: (うなずきながら)すごく素敵ですね…。私も将来、鳴門でゲストハウスを開きたいなと考えているんです。始めるのに、何か特別な資格は必要なんですか?

 

能勢さん:資格は特にいらないですよ。旅館業法に関わる設備や衛生面の手続きさえ通れば始められます。ただ、正直に言うと、その手続きがかなり煩雑で(笑)。でもね、一番大事なのはそこじゃない。岡本さんが「何をもって宿をやりたいのか」を明確にすること。その理由と覚悟さえあれば、どんな手続きだって乗り越えられます。

 

岡本さん:覚悟、ですか。

 

能勢さん:ええ。もし岡本さんにとってゲストハウスが『ビジネス』のためなら、正直、この鳴門の郊外でやるのはやめた方がいい。儲けたいだけなら、徳島駅前みたいな人の集まる場所の方がよっぽど効率的です。でも、もし『生き方』としてやるなら話は別。自分にとっての〝価値〟を明確にして、そこを突き詰めていけば、誰にでもできる。僕のこの宿も、僕の好きなものを詰め込んだだけ。そうするとね、不思議と類は友を呼ぶというか、僕の価値観を「面白い」と思ってくれる人が自然と集まってくるんですよ。

 

 

能勢さんの『価値観』と『好き』がたっぷり詰まったこだわりの本棚を見上げる一同

 

第2章:「移住しなきゃ」は思い込み? 肩の力を抜く、二拠点生活のリアル

 

半農半X推進シェアハウス事業参加者の奥野さん。故郷・石川県と鳴門、二つの土地で季節に応じた農業に関わる生き方を見つめている

 

奥野さん:僕は石川県出身で、鳴門への移住も考えていたんですが、やっぱり生まれ育った土地を完全に離れるのには抵抗があって…。それで、石川と鳴門での二拠点生活を検討しているんです。能勢さんは兵庫と鳴門の二拠点生活とのことですが、生活費などはどうされているんですか?

 

能勢さん:なるほど。奥野さんは農業を軸に考えているんだよね。僕が二拠点生活を始めたのは、さっきも少し話したけど、実はすごくヨコシマな理由からなんです。あなたたちみたいに立派なものじゃない(笑)。

 

奥野さん:ヨコシマ、ですか?

 

能勢さん:そう。兵庫にいる両親が2人とも介護状態になってしまってね。僕も妻もフリーランスだから、会社員みたいに「9時から5時は仕事なので無理です」って言えない。病院の付き添いも、仕事の合間になんとか入れられちゃう。親の介護をして、仕事して、家に帰ったら親父の話を聞いて…。夫婦そろって限界を迎えかけたんです。その『逃げ場』として選んだのが、ここ鳴門での暮らしだった。

 

職員: ――それは大変でしたね…。『逃げ場』だったとは、驚きです。

 

能勢さん: ええ。僕はサーフィンが趣味で、もともと徳島にはよく波乗りに来ていたから、馴染みはあったんです。介護と仕事で疲れ果てたら、こっちの拠点でサーフィンや、好きなことをして心身を休める。そしてまた、兵庫の家に戻る。そんなサイクルでした。だからね、皆さんもそんなに気負わなくていいんですよ。二拠点って言っても、初めは『仮暮らし』でいい。この辺りなら月2〜3万円で借りられる物件もあるし、まずは鳴門を息抜きの場所として使ってみる、くらいの感覚でいいんです。

みなさん、地方に住むとなると『移住しなきゃ』と思うかもしれないけど、必ずしもそうじゃない。向いてないなと思ったら、やめたっていいんです。

 

 第3章:お金、仕事、パートナー… 一歩踏み出せない「ブレーキ」の外し方

 

半農半X推進シェアハウス事業参加者の高野さん。長年抱いてきた徳島への憧れと現実の間で、最適な暮らしの形を思索している

 

高野さん:私は『半農半X』の『X』がまだ定まっていなくて…。やりたいことはあるんですが、資格を取るには関東にいた方が都合がいいんです。両親は兵庫にいるので、鳴門に来れば距離は近くなるんですけど、なかなか踏み切れなくて。

 

職員:何か具体的なハードルがあるのでしょうか?

 

高野さん:はい。パートナーの仕事が都市部中心なので、一緒に移住となると彼が無職になってしまう。そうすると、私が彼の分まで稼がなきゃって思っているんですが、それにはまず資格を取りたい。そうなると、鳴門には来たいけど、関東から離れられないって状況なんです。

 

能勢さん:なるほどね。先ほど奥野さんも生活費のことを気にされていましたが、お金のことは、そんなに心配しなくてもいいかもしれないですよ。僕が都市部にいた頃は、ストレスをお金で解決してたんです。高級車を買ったり、毎晩飲み歩いたり…。でも、こっちでの生活を始めてから、そういうストレスがなくなった。結果的に、余計なお金を使わなくなったんですよ。暮らし方を変えることで、お金のかかり方も変わってくる。

 

高野さん:暮らし方が変わると…。

 

能勢さん:そう。それから、仕事のスタイルも一つじゃない。僕の知り合いの旦那さんは、奥さんが始めたカルチャースクールを手伝うために仕事を辞めて、スクールを開催していたカフェスペースでケーキを作り始めたんです。それまでお菓子作りなんてしたこともなかったのに。でもある時、奥さんがスクールを続けられなくなって、今では旦那さんのカフェが生計を支えている。つまり、自ら動かないと何も変わらないってことなんです。

 

動きたいけど、お金が、仕事が、って心配するのは、「アクセルを踏みながらブレーキをかけている」のと同じ。だから動けない。そのブレーキを外してやれば、あとは前に進むだけなんです。もし今すぐ動けないとしても、人とのネットワークを築き始めることはできる。これは一朝一夕にはできないから、今からでも少しずつ始めておくといいですよ。

 

第4章:人生の転機、どう乗り越える? 焦らず「自分」を見つめ直す時間

 

半農半X推進シェアハウス事業参加者の北村さん(左)。市役所を退職後、結婚を経て人生の新たな一歩を模索している

 

北村さん: 私は12年間、公務員として勤めていたんですが、このままの生活でいいのか疑問に思って、この春に退職しました。実家が福岡なので、両親のことも考えて帰る予定だったんですが、結婚して、夫の仕事の都合で兵庫に残ることになって…。両親もそう若くはないので、近いうちに私一人だけでも福岡に帰ろうかと考えています。

 

能勢さん: そうでしたか。退職と結婚、大きな出来事が一度に重なったんですね。僕が思うに、今は焦る必要はないんじゃないかな? いろいろなことが整理されてから、改めて北村さん自身がどうしたいのか、じっくり見つめ直す時間を作ってみてはどうだろう。

 

北村さん:でも、周りには「九州に帰る」と言ってしまった手前、まだ帰らないのかって思われているような気がして、少し気まずくて…。

 

能勢さん:なるほどね。だったら、例えば「夏の間だけ福岡に帰る」とか、期間を決めてみるのもいいかもしれない。ご主人との新婚生活を楽しむ時間も大切だし、もしかしたら、いざ福岡に帰ってみたら、ご両親とずっと一緒の生活はキツイな、と感じるかもしれないしね(笑)。まずは焦って事を進めずに、ご自身の本当の気持ちと向き合うのが一番だと思いますよ。

 

 第5章:自分だけの「価値観」が、未来のコンパスになる

 

 

職員:皆さん、それぞれに抱える想いや悩みがある中で、能勢さんのお話はすごく心に響きます。最後に、これから新しい一歩を踏み出そうとしている皆さんに、メッセージをいただけますか。

 

能勢さん:そうですね…。まず、憧れだけで始めたことは、うまくいきません。大事なのは、自分を掘り下げて、「自分の価値観やどんな生活をしたいか」を明確にすること。そして、自分の本当の強みは何かを知ることです。

 

職員:本当の強み、ですか。

 

能勢さん:ええ。それも、苦労せずに当たり前にできていること。僕で言うと、こうやって誰とでも、どんな話でもできること。僕にしてみたら何の苦労もない「あたりまえのこと」なんだけど、周りから見たらこれが僕の「強み」なんです。皆さんも、自分では気づいていない強みが必ずあるはず。

 

職員: なるほど…。

 

能勢さん:自分の価値観をしっかり持てば、人の評価に左右されなくなります。世の中には、自分とぴったり同じ価値観を持つ人が必ず数パーセントはいる。そういう人たちと繋がっていけばいいんです。あとは、世の中の動きをよく見ること。僕の場合は、コロナ禍が明けて旅行需要が戻ることや、インバウンドの増加を読んでいました。自分の価値観というコンパスと、社会の流れという地図。その二つがあれば、きっと道は拓けるんじゃないでしょうか。

 

さいごに

 

座談会が終わりNOMA yadoを後にする頃には、海面を渡ってくる風も少し涼しさを帯びていた。

最初は緊張した面持ちだった参加者たちの表情は、晴れやかで、どこか吹っ切れたように見えたのが印象的だった。

 

「ブレーキを外してやれば、あとは前に進むだけ」。

能勢さんの言葉は、移住や二拠点生活という大きな決断を前に、さまざまな理由で足踏みしてしまう私たちの背中を、そっと押してくれるようだった。

完璧な計画を立てて「移住する」ことだけが正解ではない。

時には「逃げ場」として、時には「仮暮らし」として、地域とゆるやかに関わってみる。そんな肩の力が抜けた選択肢が、自分らしい暮らしへの第一歩になるのかもしれない。

 

この記事を読んでいるあなたも、今、アクセルとブレーキを同時に踏み込んではいないだろうか。

鳴門の穏やかな海が教えてくれたのは、急がず、焦らず、自分の心の声に耳を澄ますことの大切さだった。

まずは自分の「価値観」というコンパスを手に、小さな一歩を踏み出してみてはどうだろう。

 

対談終了後の1枚。半農半X推進シェアハウス事業参加者のみなさんの晴れやかな笑顔が印象的だった

 


NOMA yado

住所:徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦字土佐泊303-22

電話:0886-60-0857

ホームページ:https://nomayado.jimdofree.com/