どの街にも、きっと猫はいる。猫は人間ばかりいる街に生きている、(自然状態に比べると)数少ない動物のひとつだ。
都市やその郊外といった場所で、多くの人は時計に象徴される客観的かつ均質的な時間を生きている。○○時に出勤(登校)する。これからの予定表がある。○○時に誰かと会う(授業を受ける)。○○時から○○時まで休憩し、○○時に退勤(下校)する。そういったことだ。
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ところで、若い若いと言われることの多い21歳の僕でも、ある程度の年数を生きてくると、人生に良いことばかりがあるわけではないことに、嫌でも気付く。つまずいてこける。膝を擦りむく。痛いし、嫌な気持ちになる。しかしそうなったことに特に原因はない。因果応報ですらないということがある。
ネガティブな出来事が必ずしもプラスの方向に転化するとは限らないし、絶対にプラスにならないような出来事すら、人生には降りかかってくることもある。
幸運なことに僕はまだ致命傷を負ってはいないけれども、周りを見渡すと色々と大変なものを抱えている人がいるし、その重荷がいつか手放しうるようなものではなく人生のトーンを決定するようなその人自身の背景に近いものになってしまっている人もいる。
そんな人たちを見ながら、自分は絶対にそうならないと考え続けられるのは、よほど傲慢であるか想像力が欠如していないと難しい。
そして、そんな重荷を抱えていると職場や学校の要求する時間の速さに追いついて生きるのが苦しくなることがあるのは、容易に想像できる。
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猫の話に戻そう。
時計的時間の中の、社会的用事の、帰り道なんかで猫が道を横切る光景に遭遇すると、「意味の世界」の中に「無意味な空白」が置かれるようで、心地よい。
猫は無意味な空白を置くと書いたが、時計的な時間の外には、本当は猫以外にもたくさんの空白があるはずだ。
もっと言うと、世界は本来は無意味で充ちているはずだ。歩く速さを少し緩めるだけでも、木や、歩く人や、街の喧騒にも心地よい空白は見いだせるのではないだろうか。
大切なのは今自分がいる時間の外が存在しているのだと感じられること、束の間でも時計的時間から出て行けることではないだろうか。
まだ若いうちは特にそうだが、僕らは自分の未来をより良いものにするために日々学校に行ったり、職場で働いたりする(少なくとも、そうすることは良いことだとされている)。休暇の時間を楽しく充実させることも含まれるかもしれない。
未来をより良いものにするという思想のもとで活動することは、一般的に「前向きに生きる」と言われている。
しかし、「『前向きに生きること』の『前』とはどの方向なのか」と問うたのは、僕の働いている書店の店主だった。「多くの場合そこで言われている姿勢は経済力を含めた社会的な評価を獲得することに集約されているが、それだけが『前』だとは言えない。ある人にとっては、変わらず、その場に留まり続けることが『前進』であったりもする。」「そして人にとって『前』がどの方向なのかを問うのが、文学だ」とも言った。
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僕の暮らす大分市という街には、都市の真ん中にありながら、その時の流れの速さとは独立したペースと価値観を保つ店がある。「ばんぢろ」という喫茶店だ。二階建の民家の一階部分を店として使って営業している。民家なので靴を脱いでゆっくりくつろげるのが嬉しい。入ると、中庭には植物がこんもりと茂っていて、市街の無機質な風景と比べて柔らかく意外な感じがする。煙草も吸える。
廊下には知的障がいのある方の絵画作品がよく展示されている。
映画や美術に関する本、マンガがたくさんあって、販売はしていないが自由に読ませてくれる。
畳の席に座ってぼんやりしていると、庭から黒猫がゆっくりとやってくる。看板猫の「おはぎちゃん」である。とても人懐っこくておとなしい、老いた猫で、よく膝に乗ってくる。ほかのお客さんの膝に行ってしまうこともあるけど。
ばんぢろの存在はそれ自体が僕にとって空白のようなものなのかもしれない。
店主・二宮さんもばんぢろのそんな雰囲気を語るのに欠かせない人だ。僕は二宮さんと友達のように話をするわけではないし、ましてや互いに踏み込んで話すことはない。話すのは、主に、日常のとりとめないことや、猫や、本のことなどだ。
しかしそういう踏み込まない距離感が僕は好きだ。突き放しもせず入り込みもせず、いるだけ。喫茶店を長く営むにはこういう距離感がちょうど良いのだろうか。
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僕らは前に進まなければならないのだろうか。「前」とはいったいどちらなのだろうか。そして、進んだ先に何があるのか。
社会的な自分の位置を良い方向に変えようとする努力は、大抵の場合負荷のかかることであるはずだ。
それは、客観的な評価を得るために勉強したり、何かをできるようになることだ(学校に入るために受験勉強をしたり、仕事でこれまで以上の成果を挙げることなど)。
そういった評価には客観性があるので、ある程度の公正さが保証されているが、それ故に、そこには実力が満たずに評価されなかった人間の心理的な逃げ場がない。
そして一度つまずくと態勢を立て直すのが難しいという状況は沢山ある。
だからこそ、そういった価値観から自由な時間や、場所が、(逆説的だが、勉学や仕事の要求する価値観にとっても)時には必要なのではないだろうか。
この街には、そういう穏やかな余白がまだあるのだと思う。ばんぢろで会いましょう。
波多野樹(カモシカ書店スタッフ)
【大分の窓】色と形と旅と日々––2010年代のこと vol.3
波多野樹(カモシカ書店スタッフ)