「自信をもって、『みかん、やったらええやん!』って言えるような町にできたら最高かなと思いますね!」

“ わたしたちが自信を持って、子供たちに、「みかん農家になってみたら?」と言える町。それは、わたしたちが、みかん作りに幸せを感じ、同時に誰かを幸せにしている実感があるからだと思う。”(みかん作りの理念より)

 

 

 園地へ入ると、獣除けのラジオの音が響いてくる。その音に重なるように、チョキチョキチョキ、と手際のよい音が聞こえてくる。

 

太陽の光を受けて輝くみかんを収穫しているのは、山門 祐典(やまかど ゆうすけ)さん、45歳。曾おじいさんの代から続くみかん畑を、4代目として守り続けて23年目。
現在、父親とは畑を別々に持ち、それぞれでみかんを栽培している。

親離れして、本気になれた

なんとなく「みかんを継ぐんだろうな」と昔から思っていたという山門さんは、三重県御浜町で生まれ育った。幼い頃から父の背中を見て育ち、みかんで育ててもらっているという自覚があったからこそ、無意識のうちに「自分が継ぐんだ」という意思が芽生えた。

「高校卒業後に農業の学校へ行って栽培方法を学びました。就農した当初は親の手伝い程度から始めて、自分と親父の畑を分けて仕事をやって。自分で全部やってみろ、と言われるまでは10年くらいかかりましたね。ダメ息子なんで、預けるのが怖かったんやと思います。自分で全部やるようになってから、本気で栽培できていると思います」

次世代へとバトンを渡すタイミングは、農家それぞれ。親族が師匠の場合、独立するまでに時間がかかるケースもある。それは、親心としての愛情が、厳しさとして表れてしまうからなのかもしれない。「任せよう」と思えるのは、年数を重ねて、お互いに信頼を積み重ねてきたからからこそ。師匠でもあるが、親でもある。親子という距離の近さもあり、ぶつかる時も。

「親との意見の違いがあると、対抗しても8割負けますね!残りの2割勝った時が楽しいかな(苦笑)。 たぶん、失敗しないように心配して忠告するんでしょうけど、中々それが素直に入ってこないというか……」

「今では親はもう何も言わなくなりました。言われなくなった、が正しいかも(笑)」

一度、御浜町を離れてから故郷に戻った、いわゆる「Uターン就農」の山門さん。

「基盤とか畑とか、栽培する道具や機械が全部そろってるんですよね。その辺はゼロから新規で農業を始めるのとは比べ物にならないくらい恵まれています。あとは帰ってきても飯が食えるように、畑の整備とか色々なことを親にしてもらっていました」

良い状態の畑でみかん作りを始められることは、みかん農家としていいスタートを切れる(=収入が見込める)ということ。よく知っている土地に帰る、という安心感もある。実際に、山門さんの同級生も継ぐ形でみかん農家になった人もいるそうだ。その一方で、2代目、3代目としてみかん農家を継ぐことを迷う人も少なくない。

「とりあえずいつでもできるんよね。高校卒業して大学出てから帰ってきてもいいし。僕みたいに農業大学校行って帰ってきてもいいし。継ぐのであれば、タイミングはいつでもいい。とりあえずやりたいこと精一杯やって、帰ってきてもいいし」

みかん農家のライフスタイルも、時代と共に変化している。実際に山門さんの親の世代では360日は働いてほぼ休みなし、というのがスタンダードだったのが、しっかり休みをとることができるようになったという。それは、山門さん自身がそうしようと決めて変えてきたこと。「親の働く姿を見ていて大変そうだった」という人も、自分次第で働き方改革をすることもできるかもしれない。

紀伊半島南部の御浜町は、年間平均気温が17℃と暖かい日が多い。風土がそうさせるのか、南の人特有のゆるりとした町民性がある。あくせくせず、ゆったりとした時間が流れる「御浜タイム」があるような気がしてならない。

「農業に関しての困りごとがあれば、周りの農家はみんな聞いたら教えてくれるので、人柄もかなり助けになるんじゃないかと思います。僕でも話しかけてもらったら答えるし、遠慮なく聞いてもらったら。あと、JAの営農指導員の人たちは専門的な栽培技術を教えてくれます」

「誰彼かまわず話しかけること」とアドバイスする山門さん。大切にしているのは、他の農家とのコミュニケーションだ。みかん作りの先輩がたくさんいて、その先輩たちも他の農家から学び、成長してきた。だからこそ、新規就農者を温かく迎え入れる環境ができあがったのかもしれない。遠慮せずに踏み出せば、周りも応えてくれる。

「年中みかんのとれるまち」というキャッチコピーが表すように、年間を通して様々な品種のみかんが栽培されている御浜町。それはつまり、戦える商材が豊富ということ。時期をずらして多品種を栽培することで、労力を分散でき、自然災害によるリスクを減らすメリットも。

 

山門さんの場合は温州みかんを中心に、超極早生、極早生、早生、そして晩柑類のデコポン、またハウスみかんなどを栽培している。

「御浜町の柑橘は伸びしろが満載だと思います。今のところ超極早生温州(ちょうごくわせうんしゅう)みかんが一番早く出荷されるので、それを軸にしてもっと生産量を増やして、美味しいみかんを立て続けに出していけるような地域になれば、もっと面白いことになるんだろうなって思うんですよね」

 

 

夏に日照りが続き、土壌が乾くとぐっと糖度が上がり、雨が降ると酸がぐっと下がる。こうして生まれるのが、超極早生温州みかん。毎年9月上旬に収穫が始まる、まだ青い皮に包まれたみかん。夏の暑さが残る中で味わうこのみかんは、「この季節にはこの味がぴったり」と自然が教えてくれるかのような、爽やかな味わいが特徴。 本州のトップバッターの品種として出荷されるこの青みかんは、御浜町の武器だ。普通の極早生みかんより糖度が高く、限られた時期にしか販売されないのも、商品としての希少性を高めている。

御浜町では、日常の風景の中にみかん畑が溶け込んでいる。それはつまり、御浜町の景色にはみかんが必要不可欠だということ。
みかん農家を継いで、歴史を紡いでいくことは、御浜町の景色を作るということ。そんな大役を担う山門さんは、きっと「産地としての御浜町を守っていく」という使命を感じる場面も多いのだろう。そんな彼に、今の夢を聞いてみた。

「御浜町は働ける職場が少ないとよく言いますが、みかんやったらええやん!って言えるような町にできたら最高かなと思いますね。自信をもって、そう言える町になったら有難いかな」

山門さんの言葉には、「御浜町が理想とする町の姿」がありありと描かれていた。心からそう言えるのは、御浜町がみかん作りに最適な場所だということを、身をもって感じてきたから。そして何より、みかん作りに深い喜びを感じてきた日々があったから。

「自分の努力次第でどうにでもできる職業なので、魅力はかなりあると思いますね。大切にしようと思っていることは、園地や気候をこまめに観察すること。それが一番、技術より上にいくのかなと思ってます。一番のやりがいは、食べてもらった人に美味しいって言ってもらえることですね。そこに勝るものはまずないかな。収入面では、頑張って作ったみかんが高く市場で評価されるのがやりがいです」

経験値が上がるにつれて、みかんの味も変わってゆくという。だが毎年、理想通りのみかんができる訳ではない。

「農家としての経験を重ねるのは一番大事だと思うんですけど、毎年気候も違うので、この時はこうだった、っていうのをちゃんと覚えておくのが大事だと思います。一年に一歩ずつ進歩するかって言ったら、しないかもしれないです。多分、どのみかん農家も、毎年ちょっとした失敗を積み重ねながら、実力を上げていってるんだと思います」

 

自然相手の仕事には、思い通りにならないことが多くある。だが、そのもどかしさをエネルギーにして、モチベーションを維持することもできる。それには「上手くいかなくても腐らない」という覚悟が必要だ。
これまでのみかん農家歴で「いまだに完璧なんて年は一回もない」と話す山門さん。

「みかん作りに必要となる”センス”は、多少必要ではあるんだろうけど、それ以上にみかんと向き合う努力と根性があれば、その部分は埋められると思います。僕でもできてるんで、皆さん大丈夫だと思います」
と、ベテランらしからぬセリフをつぶやいていた。

山門さんは、現在45歳。御浜町のみかん農家には、20代~90歳以上の方もいる。その中での山門さんは、まだまだ若手。21歳で農家を継いだ青年が、先輩と後輩を繋ぎ、御浜のみかん作りの将来を引っ張っていくリーダーとなった。

未来の町を担う子供たちの幸せと、豊かな暮らしに思いを馳せる。
親から子へ。子からそのまた子へ。
脈々と続いてきた、みかん農家たちの歴史。
これからもその歴史を守るために、次世代へとバトンが繋がれていく。

「みかん、やったらええやん!」その言葉に重なって「一緒にみかんを作ろう!」という声が聞こえてきた気がした。

 

(2021年10月取材)

山門さんの移住・就農ストーリーを動画でもお楽しみください↓

 

▼兵庫から移住して、マイヤーレモン農家になった田中さんの物語▼
▼大阪から移住して、みかん農家になった仲井さんの物語▼

愛知県から移住して、みかん職人になった寺西さんの物語

 

↓ 御浜町でのみかん作り・農家の物語 ↓