記事のポイント

  • 全国の沖縄物産展で消費者ニーズに合わせた売り場の編集力を磨く
  • 東京での挫折を経て、自らの立ち位置を見定める
  • 自身も注目していなかった地元うるま市を”編集”し、生活者に届ける

世界遺産の勝連城跡に、フォトスポットとしても名高い海中道路。どちらも沖縄本島中部のうるま市に所在する観光名所だが、ここうるま市で「民間によるまちづくり」のグランドデザインとその実践に奮闘する人物がいる。

中村薫さん。かつては一週間で約1億6000万円を売り上げる沖縄物産展の仕掛け人。その後「頭が真っ白になる」挫折を経て自分の立ち位置を見つめ直し、「10年住んでいたのに何も関心がなかった」地元・うるま市で、「消費者と事業者をつなげるプロデューサー」としてリスタート。さらに「地域の課題を解決するプロモーター」として会社を興し、地域に深く関わるようになった。そんな中村さんの現在に至るまでの軌跡を追い、地域事業家としての“軸”を浮き彫りにしていく。

中村 薫さん

一般社団法人プロモーションうるま 代表理事
沖縄県那覇市出身。沖縄国際大学 商経学部経済学科卒業後、飲食店、商社などを経て2012年、うるま市雇用創造推進協議会に入職。主に物産商品化推進事業を担当。2015年、一般社団法人プロモーションうるまを設立。2016年、代表理事に就任。地域の魅力を「編集し、価値を伝える」というスペシャリティを活かし、“100年後のうるまをつくる”を理念に掲げ、うるま市と周辺地域のQOL向上を目指している。

中村薫さんが代表理事をつとめる「プロモーションうるま」は、うるま市に軸足を置く民間のまちづくり会社だ。移住定住の促進・地域資源活用商品の開発・イベントの企画開催といった”地域づくり”を核に、食と農のプロデュース拠点・市民の健康増進拠点・産業の振興拠点という3つの公共施設の企画・管理運営も担っている。

プロモーションうるまのオフィスには、地域の価値が編集・発信されたさまざまな媒体が並ぶ

中村さんが得意とするのは「魅力づくりとその発信」だ。地域の知られざる優れた商品や素材に光を当て、新たな視点でその魅力を「編集」し、「創り上げ」それを求める人に伝わるよう「価値を発信」していくことを自分の立ち位置としている。

そんな中村さんの代表的な仕事をひとつ挙げるなら、「プロモーションうるま」の起業前に手がけた2012年の「津堅(つけん)にんじん」プロジェクトだろう。うるま市の離島・津堅島で大量廃棄を余儀なくされていた規格外のにんじんを、島の農業生産法人がパウダー化。これを使って市内の菓子製造事業者が新作スイーツ「津堅にんじんロール」を開発し、クリエイティブの力でブランディングする。その全ての過程をプロデュースした中心人物が、中村さんだ。10回にわたる試食会議の開催、パッケージ・ロゴデザインの地元のデザイナーによるコーディネートなどを経て世に送り出された「津堅にんじんロール」はその後、市内5つの菓子製造事業者が競作する形で商品化。6年を経た現在も地域限定商品として好評販売中で、雇用の創出にもつながっているという。

うるま市の津堅島はにんじんの名産地。規格外品を加工商品・ブランド化した

観光客と県外客に教えてもらった、沖縄の面白さ

中村さんのキャリアは、飲食業界から始まった。

「卒業後しばらく飲食店で働いていました。仕事は楽しかったですね。最初は那覇市で、それから観光客の集まる中部の店舗に移ったんです。そこで観光客の方と接する機会が一気に増えて、沖縄の魅力を外の人から聞くうちに、『沖縄って面白いんだな』と気づかせてもらって。いずれ、何かしら沖縄を打ち出していくような仕事に携わっていきたい、と漠然と思うようになっていきました」

28歳で、沖縄の物産を扱う商社に入社。全国の百貨店での沖縄物産展の企画・運営セクションに配属された。

「入社2日目にはすぐ県外出張でした。マニュアルも何もなく『すぐ現場!』です(笑)」

一年のうち約半分は県外を飛び回る仕事。それまでにないスピード感の渦に飛び込んだ。

当時は連ドラ「ちゅらさん」で沖縄ブームが頂点に達した直後。その後ブームは徐々に下降線をたどるが、「面白いことに物産展はそこまで大きな影響を受けなかった」と中村さんは言う。

「物産展のよさは、その時々のニーズに合わせて常に企画を変えられるところ。消費者目線で、百貨店という場のフィルターを通した沖縄の見え方を、企画の力で変えられるところだと思います」

物産展の開催地ごとに違うテイストに合わせ、それに適した沖縄の事業者をセレクトするのも中村さんの重要な仕事だった。

「たとえば沖縄そばなら、醤油文化の東京ではしっかり醤油味系、だし文化の関西ではあっさり薄味系。これを逆にしてしまうとウケないとか。全国を回るうちに、その土地ならではの食文化や趣味趣向の違いが見えてきました。また、たとえばその地域が団地中心か、戸建て中心かで買い物の指向も変わります。ケーキの買い方でいえばホールで買うか、ピースで買うか、といったことですね。そんな違いを肌で感じながら、徐々にその地域で売れる“法則”をつかんでいきました」

物産展の仕事を「“嗅覚”が問われる仕事だった」と振り返る中村さん。

雑誌よりも早く、今の沖縄・旬な沖縄をプレゼンテーションしていくのが僕らのミッションでした。めちゃめちゃ面白かったですね」

東京でのチャレンジ、大きな挫折。そして再起へ

38歳、転機が訪れる。沖縄ブームに乗じて全国に見よう見まねの沖縄居酒屋・料理店が乱立する中、“本物の沖縄”を味わえるお店、ベンチマークになるお店を東京から展開しようと、県内3社の合弁で新会社が設立された。そこに、自ら希望を出して転籍したのだ。

事業統括責任者の宮城淳一さんと

直営4店舗の横展開と、新規で沖縄料理店立ち上げに取り組む事業者のコンサルティングを行うという使命を帯びて東京に乗り込んだ中村さん。

ところが、どんなにがんばってもうまくいかなかったという。

「池袋、台場、丸の内の各店は順調だったのですが、難しかったのが旗艦店の銀座店でした。琉球王朝の宮廷料理をフルコースで味わえるのが売りで、接待などにも非常によく利用いただいていた矢先に、調理場の責任者に不測の事態が起こり戦線離脱を余儀なくされたんです。宮廷料理をコースでつくれる料理人がもともと少なかったので後任が決まらず、コースを縮小せざるを得なくなり、定食的なメニューも出すようになりました」

店のコンセプトがずれていったことで、本当に大事にしなければならなかったお客様が離れてしまった。
1年を待たず銀座店は閉店。会社も解散となり、中村さんは沖縄に戻ることになったが、当時は「頭が真っ白」。
何も考えられなかった。

「物産展に携わっていた頃は、沖縄ブームが去った後も物産展だけは売上が好調だったことを『自分の仕事が評価されている』と勘違いしていました。自信満々で、東京でチャレンジする仕事に自ら手を挙げて行った。銀座で戦っていける、と自分では思っていたんですが・・・。不測の事態も確かにありましたが、そこをどうにかするのが僕らの仕事だったのに。」

沖縄に戻り、「自分に何ができるんだろう」と考えをめぐらせる日々。気づけばたちまち半年が過ぎていた。迷走する中村さんを案じて、商社時代の恩人がたびたび声をかけ、呼び出してくれた。その中で受けたひとつのアドバイスが、中村さんの再起のきっかけとなる。

「地域の生活者と、ものをつくって売っている事業者との間に入る仕事が、お前の立ち位置じゃないの」

中村さんを“地域”へと向かわせる、潮目の言葉だった。

折も折、ちょうど住んでいたうるま市で、厚生労働省事業「うるま市地域雇用創造協議会」が立ち上がり、そこで地域の物産をプロデュースする仕事に就くことになるのだが、中村さんは「29歳からずっと住んでいたのに、うるま市にはほとんど関心がなかった」という。それでいて「関心がなかったからこそ、今につながってくるんです」とも。

その心は?

「商社時代は、北は山原(ヤンバル)から、南は与那国島まで本島離島問わず百貨店バイヤーを連れて視察や商談に足を運んでいましたが、うるま市には多分何回も来ていない。ほぼスルー状態ですね。つまり当時は、うるま市についての情報が、少なくとも自分に伝わる形では誰からも発信されていなかった、ということです」

この時、中村さんは改めて自分の立ち位置を、「消費者と事業者をつなげるプロデューサー」と認識したという。

「例えば、同じAという情報でも僕のような立場の人間が入るとプラスαの魅力を付加し、A’(エーダッシュ)に変化させることができる。いい商品をつくるのは上手なのに、買い手側の要望を汲むのが苦手な地元の事業者と、バイヤーとの間に僕らが入ると、よい方向に動き出す。そういう経験をいろんな場面で活かせたら、と思いました」

どん底にいた中村さんに前を向く力を与えてくれたのは、激務の商社時代に培った経験だったのかもしれない。

うるま市地域雇用創造協議会での3年間を経て、起業。
さらにその先へ

新たな職場では物産商品化推進事業を主に担当。「地域に雇用をつくる」ことを旗印に掲げながら、冒頭で紹介した「津堅にんじんロール」のほか、もずくの惣菜3種・黄金芋の菓子2種を地元事業者との“地域連携型6次産業化スタイル”で共同開発。着実に成果を積み上げた。

そのプロセスの中で地域の生産者や事業者、住民、とくに離島地域の人々と直に接し、声を聞く中で、

「本当の課題が見えてきました。そして地域ではそれを声を大にして言えない現実があることも。それをなんとか僕らの手で前向きにできないか、と考えるようになりました」

3年計画の事業終了と同時に協議会は解散してしまう。それなら自分たちで会社を興して取り組みを継続していこう、と志を同じくする協議会の6人で一般社団法人の設立を決めた。

「地域資源に恵まれているにもかかわらず、うまく活用されていなかったり、情報発信されていなかったり。そういう部分の価値を創り上げて、情報発信する、いわば僕ら流に『編集する』。そしてそれを伝えて、知ってもらって、興味関心をもってもらって。それで、うるま市に行こう、勝連城とか海中道路とかのあるあのエリアに行こう、と思える価値を伝えたい、という想いが原点でしたね」

イベント・情報ツール・商品と、地域の価値の編集手法は多岐にわたる

地域の課題解決を掲げた会社として、地域の行政との連携も密に図っていきたい。そう考えた中村さんらは、まずは行政の委託事業の受託を目指した。

「設立後3年はスタートアップ期間と見定め、受託事業に取り組みながら基盤をつくり、また行政や地域住民の方との関係性も築こうと考えました。その後は我々のビジネスでしっかり稼いで、自立自走していく構想です」

設立からまもなく3年となるが、現在は産業振興施設の「いちゅい具志川じんぶん館」や健康推進センター「うるみん」の指定管理に加え、移住定住促進事業なども受託。計画に沿って基盤を固めている。

そんな中、いま正念場を迎えているのは、プロポーザルで企画運営・指定管理を勝ち取った「うるマルシェ」(うるま市農水産業振興戦略拠点施設)の仕事。

細部にこだわり、「うるマルシェ」の売り場を編集

「2018年秋頃予定のグランドオープンを成功させるべく、奔走中です」

※プロモーションうるまの事業については、
「100年後のうるまをつくる」を理念に、ローカルイノベーションに取り組む“秘密基地”」
アライアンスで勝ち取った拠点整備事業を通して「健康」&「食と農」を地域経済成長のエンジンにをお読みください。

38歳の転機、挫折、そして再起。多くの経験を通して中村さんが得たもの、地域事業家としての中村さんが軸とする信念とは何なのか。

地域の人との信頼関係ありき、ということですね。信頼関係がない中では、何をやっても上滑りしてしまう。地域への愛を持った上で、地域の人とともに実行し、ひとつずつ達成していく。だからすぐには形にならないんです。時間がかかる。それでも、僕らのやってきたことが徐々に定着しつつある、受け入れられつつあるという実感は日々、大きくなっています。それと、僕としてはうるま市には『拾ってもらった恩義』という部分もあって。だからこそ今の仕事、だとも思っています」

拾ってもらったうるま市に、仕事で何かを返せたら。そんな想いもまた、中村さんのエネルギーの源泉となっているのだろう。

●一般社団法人プロモーションうるま

  • 代表理事 : 中村薫
  • 所 在 地 : 沖縄県うるま市字田場1304-1 1F
  • 電 話 : 098-923-5995
  • 設 立 : 2014年9月
  • コーポレートサイト

取材・文:谷口紗織