地方での暮らしが、留学と同じぐらい面白かった

そんな渡邊さんが育った環境は一つの環境にとどまらない。とてもグローバルだ。
「ずっと外からの刺激が欲しくて、自発的に外に行っていた人間でした。」

東京で生まれて、3歳の時に父の仕事の関係で渡米。6歳で帰国後、日本の小中学校に通い、高校2年までは東京で育つも、外に出たい思いが募り、高校2年生の時、当時通っていた高校を辞めて、カナダに移ってUWC(United World College)に通う。卒業後は、イギリスの大学に入学し、社会人類学を学んだ。

「社会の構造とか、文化ごとの個性とか、人は何でできているんだろうみたいなことに興味がありました。ひとりひとりの中にたくさんフィルターがあって、それらは家族や地域、時代、クラスターごとに違う。それらが、どうやってその人の個性になっているのかというところがすごく気になったんです。もともとあまり日本に帰って来るつもりはなかったんですけど、社会人類学を勉強すればするほど、自分を構成する要素が、気になってきました。その要素の一つとして、日本への興味が強まっていきました。」

「あとは高校生の頃から、長崎県の五島や平戸の方で、ディープな文化交流をしている方がいて、インターンを募集していたんです。夏休み暇だったので参加したら、はまっちゃったんです。旅行とかで日本の地域にも行ったことあるんですけど、観光で行くのとは全然違いました。地元の漁師さんの家に泊まり込んで生活してみると、なんか違う国だなと思ったんです。卒業して、就職をどうしようかなと思った時に、就職活動を普通にしたんですけど、雰囲気的に私は違うなと思い始めました。留学と同じくらい、地方での暮らしが刺激的だったのが頭に残っていたからだと思います。」

当時から、ものづくりや日本の文化を伝えることに業種を問わず興味があったという渡邊さん。勤務地として九州は良いかもしれないと考えていた時に、福岡にいた知り合いに、「海外に展開していて、ものづくりをしている会社ないですか?」と尋ねて紹介してもらったのが1社目の本多機工だった。

本多機工は産業用特殊ポンプを扱っている会社。特殊液体を運ぶためのポンプ等を扱うエンジニア系の会社だ。社長の海外経験を生かして、海外でも事業を展開。採用された海外からの留学生たちと一緒に、海外での販路開拓を行う海外事業部もあったと言う。

「社長の秘書のような立ち位置でお手伝いをすることになり、3年間働きました。」

得たものとして、渡邊さんが挙げるのは、ものづくりも今関わっている伝統工芸も本質的には変わらないということ。

「結局、工場で働いている人たちは職人だし、それをどう伝えて、売っていくのかということが求められていました。

転職を考えた理由は、本多機工でのキャリアアップを考えると、エンジニアの勉強をしなければならないと感じていたからだという。

「特に海外で仕事したいと思って入ったんですけど、海外営業もできないと力にはならなくて、そのためにはエンジニアの知識も必要だった。でもそこまでしたいわけではないなと思ったのと、私は文系なので、同じものづくりでも人の営みに近い方が伝えやすいところがありました。伝えなきゃいけない情報が違うというか。仕組みがどうこうではなくて、こういう背景があるので、魅力的なんですよとか。自分の戦える要素がもっとあるところで働きたいなと思って転職しました。」