地方には刺激が少ない。

このイメージを抱く人は多いのではないでしょうか。このイメージは、東京をはじめとする都市圏はきらびやかで、様々な刺激が溢れているということとセットで抱かれているでしょう。

また、地方の暮らしはのんびりしていて自由気ままなイメージもあるでしょう。しかし実際は、「こうあらねばならない」という思い込みは地域にもあり、どんなところにいても、生きるのが心苦しいという気持ちになる方も多いかもしれません。

そんな地域の空気に風穴をあける、刺激的で思い込みから脱するきっかけになる試みが宮崎県日南市で開催されました。

宮崎県日南市で九州で初開催された「生き方見本市MIYAZAKI」

東京から始まり、今までに6つの地域で開催され(2020年2月現在)、九州初開催となったのが「生き方見本市」です。「生き方見本市」という共通タイトルで、各地域でゆるやかにコンセプトを変えながら、多様さが増す生き方に触れ、考えあおうというイベント。

今回の宮崎版開催にあたっても、

生き方や働き方がに限らず色んなことの選択肢が増え、正解不正解もないこの今の時代を僕らはどうやって生きていこうか?なんて話を一緒に話そうよという会です。もちろん、その問いに答えもない。

引用元:生き方見本市MIYAZAKI開催に向けて

と主催者が自分の言葉で語っています。この一見ゆるい言葉の向こうにあるのは、誰かを鏡にすることで、自分の考えや、傾向、そして生き方がより見えてくるのではないかという提案です。

生々しい生き方や考え方に直接触れる機会が少ない地方だからこそ、大きな意味をもつ試みだといえるでしょう。

「生き方見本市」の特徴は、東京からカリスマリーダーを連れてきて語るような、大きな声で考え方の向きを揃え、エネルギーを高めるような場ではないことに特徴があります。その秘密は、「誰が何を語るのか」という点でわかります。

多世代が集まり、考えが交わされ、「小さくはじまる」

今回開催された「生き方見本市MIYAZAKI」で主役になるのは、普段は家業を営んでいたり、地域の企業の働き手であったり、現役引退して小さなお手伝いをし続けている方だったり、とにかく地域にいる人が主役です。登壇するのも10代〜60代までと幅広ければ、集まった聴衆も10代〜60代までと様々な方が集まります。

1時間程度のセッションが複数テーマで行われ、自分の興味関心に基づいて参加します。恋や結婚、働き方、地方と東京の違いなど、柔らかいものから、硬い話題まで様々なトピックが掲げられました。全てに共通するのは、正解を求めるのではなく、生き方に触れることで、自分自身の考えを深めることです。

あなたの息苦しさは、何が原因だろう?

都会にいても、地方にいても、どこか息苦しさを感じているという方も多いかもしれません。「何かを始めなければいけない」「何者かにならなければいけない」という目に見えない圧力が、テレビからYouTubeから手元に届いたニュースから感じられて、何者でもない自分に怯んでしまうこともあるでしょう。

「生き方見本市MIYAZAKI」の会場には、登壇者と観客との間に段差はありません。ステージにあがって正解を提示する人が前に立っているのではなく、当たり前に暮らしているひとりが前に立つという状況を表しているようです。

フラットな場で、目線を合わせて話すことで、自分の鏡としての生き方に触れられるという空間が広がっています。この空間だからこそ、主客の入れ替わりも起こったりしながら、様々なトピックが話される時間となりました。「小さくはじまる」という言葉は、今回のコンセプトで掲げられた言葉のひとつ。それぞれの中で、この場を通じた変化が少しでもあればという願いが込められています。

「見本」があふれる時代に、誰かの劣化コピーにならないために

改めて、なぜ何者かにならなければならないような気がしてしまうのでしょうか。それは実は、「何者か」というのがぼんやりとした印象に過ぎないことに起因します。誰かがなりたい何者かは、具体的な存在ではなくて、なんとなく何者かに見えているようなイメージではないですか。

なぜなら、いま社会で「見本」として持ち上げられている人たちは、一握りの成功を手にしたり、誰にも真似できないストーリーがあったり、わかりやすくて強い言葉を発したり、正解はこれだと、あたかもあなただけに語りかけているような人ばかりになっていないでしょうか。

そこには、自分の身近にいるような地域のおじちゃんもおばちゃんもいません。

けれど、「見本」の中に地域のおじちゃんやおばちゃんがいないのと同じく、見本にならないようなぼんやりとしたイメージのおじちゃんもおばちゃんも、そんな人は地域に実際にいません。知った気や、わかった気になっているイメージでかたちづくられた人物と同じ人はいないのです。

いるのは、地域で暮らしながら、それぞれの人生を生きている多様な人たちです。

いま求められるのは「生き方」を自分で考える姿勢

ある人物観にラベル付をして、わかりやすくなぞったモデルケースを目指して人生を歩むというのが、正解のあった時代の歩み方だったとすれば、現代は、誰かの具体的な生き方を鏡にして、自分の生き方を考えるという姿勢が求められると言えるでしょう。これが正解のない時代の歩み方のひとつのかたちです。

地方には刺激がない、学びがない、おもしろくないなどといって、地方をイメージで語る前に、イメージでしか地方を捉えられないのは、地方で生きる具体的な誰かの人生に出会えていないからだと考えられないでしょうか。

地方移住や関係人口といった地域を取り巻く言葉も話題ですが、その中心にあるのは、地方で生きる人との出会いと、彼らと生き方を共振させていくという姿勢です。ひとりよがりの地方移住も、わがままな関係人口も成り立たないことは多くの地域で明らかになりつつあります。

正解も、否定も、追従も断絶もなく、認め合い、参照し合うことで小さくはじまるものが、「生き方」を交わすことであり、生きていくということでしょう。

正解にこだわりすぎることなく、発言や振る舞いだけを真似た劣化コピーに陥ることなく生きるために、誰かを鏡にして、自分自身の生き方を探るような人生を始める。そのスタートのための場が、地方で少しずつ広がっています。